214話の感想 戦場の抑止力
これを214話の感想という冠で出していいものか悩みましたが、19巻とここ最近の本誌を読んで考えていたことが214話でまとまった感があるので、これで行きます。全体的な話が多いです。
1.戦場の理論
187話の尾形は、暗号を解く鍵に係る交渉に加え、偶像、清さ、穢れなど異なる主張が混線していて筋が見えにくくなっています。他方、最近の本誌の展開に鑑み、“戦場の理論”という1点に絞れば理屈は理解できます。しかも、尾形の主張の核は「生き延びろ」というメッセージだったりするのでは?と思います。いろんな枝葉を取り払って最大限好意的に解釈すると、という注釈付きではありますが(ふぅ、一仕事だぜ)。なお、これは言葉遊びを伴う思考実験みたいなもので、それ以上の意味はありません。
戦場における大原則は生き延びることです。杉元の言葉を借りれば、そのための唯一の方法は、「殺されるくらいなら殺す」です。つまり殺すか殺されるか究極の二者択一しかありません。これをここでは“戦場の理論”と呼びます。では、アシㇼパさんの「私は殺さない」を、この戦場の理論から捉えるとどうなるでしょうか。それは、「例え自分が殺されようとも、私は人を殺さない」でしょう。これを裏返すと、「人を殺すくらいなら自分が殺される」になりはしないでしょうか?すなわち無抵抗の殉教であり、このテーゼを体現するのが勇作ですね(後述)。
以上を踏まえると、尾形の主張には(拡大解釈すると)、「殺してでも生き延びろ」が暗に含まれていると言えるでしょう。つまり、本人の意図に関わらず、アシㇼパさんへの「生きろ」というメッセージが炙り出されるのです。「殺してでも生き延びろ」という考え自体は、杉元も理解するところだと思います。他方、杉元は、アシㇼパさんが人を殺したくないことを承知しています。加えて、自分もアシリパさんには人を殺して欲しくない。しかし、金塊争奪戦に関わり続ける限り、命の危険は付きまといます。だからこそ、脅威を排除するために杉元が手を汚すという、当初の相棒関係に回帰したのが214話でした。
それでは不均衡な関係が何も変わらないかと言うと、そうでもないようです。ここ数話で、じわじわと、戦場の理論が無効化し始めていると感じました。
2.抑止力
奇しくも鶴見との対面以降、アシㇼパさんの存在が抑止力になっているという描写が重ねられました。212話では月島が、「撃つなッアシㇼパに当たる!!」と、アシㇼパの存在を理由に攻撃を中断しました。今週は杉元が、アシㇼパさんが乗船している限り連絡船は撃沈されない、を材料に船長に恭順を迫りました。鯉登少将はより直接的に「アシㇼパが弾除けになっで…」と明言しました。まとめると、アシㇼパさんが暗号を解読するための唯一にして不可欠な存在だからこそ誰も手出しができないのであり、ウイルクの死を以て完成した価値です。
アシㇼパさんは、指一本動かさず、いるだけで敵の攻撃力を減じさせています。それにより、杉元の「殺されるくらいなら殺す」という原理的な理論が、完全に行使されなくなるのではないでしょうか。杉元が不死身を発揮するには、殺されそうになるという具体的な脅威が前提にあります。しかし、アシㇼパさんがいれば、敵は攻撃の手を緩めざるを得ないので、杉元が人を殺す機会も回避されていくでしょう。これを、戦場の理論が無効化されつつあると言えば歓迎すべきことに思えますが、一方でこの状態は、アシㇼパさんの偶像化の加速と表裏一体でもあります。そしてこの構図は彼女を唯一無二の存在にしたウイルクと、鍵を思い出す旅を先導したキロランケ両名の死の上に成り立っているのです。手放しでは喜べないジレンマがあります。
3.弾除け
またこの状況から、アシㇼパさんと勇作の“弾除け”という役割の重複が進むと共に、差異もはっきりしてきました。164話で尾形が言った「処女は弾に当たらない」はゲン担ぎでしたが、アシㇼパさんの場合は具体的な抑止力となっています。つまり、勇作のケースはあくまで味方を鼓舞する心理的作用に留まり、このプロトコルを全く共有しない敵の攻撃力には直接影響しません。他方のアシㇼパさんは、居るだけで実際に敵の攻撃力に影響を与えます。魔力のようですね。偶像が具体的な力を発揮してくると、自然と人心に畏怖が湧いて来るのでしょう。世界の秘密を握る者は、神の声を聴く者と崇められますし。まさにジャンヌ・ダルク…。
ここまで来ると、アシㇼパさんが手を汚すか汚さないかの問題を凌駕しているように思えます。手を汚さない(=敵を殺さない)から殺されるという理論は、もはや通用しませんね。自分は何もしなくても、周りの荒れ狂う大人たちをある意味コントロールしてしまう訳ですから。一般的なローティーンの少女であれば心身の均衡を失いかねない、極めて特殊な状況です。自分の存在を巡って幾多の血が流れる訳ですし。荒れ狂う大人たちの中でアシㇼパさんを支えているのは、やはり地に足のついた現実主義的なアイヌというアイデンティティなのでしょう。
こうなってくると、202話の谷垣や205話の月島の台詞等から伺えるように、尾形だけがアシㇼパさんを殺そうとしていると解釈されていることが妙な引っかかりを生みます。尾形はアシㇼパから鍵を聞き出したのでは?という疑惑はまだ有効です。疑惑が疑惑のままだからこそ生まれるドラマがありそうですね。
主義主張はコンテクストに依存するところがあるので、その意味において、19巻の尾形の指摘は的を射ていると言えます。他方、コンテクストに左右されない主義主張はある種信仰心に近いのでしょう。アシㇼパさんの不殺は銃を向けられてもなお不変でしたから、コンテクストではなく人間性に根差した真理なのだと思います。登場人物が殺しまくり暴れまくりの金カムですが、一方で人間性への問いかけも同時に描かれているのが、読み応えがあるところです。