ユガクシェートラクリア後、アルジュナの扱いとかカルナとの関係図とかの感想
(二部四章とジュナ幕間2のシナリオバレ注意)
『マハーバーラタ』におけるアルジュナは、とある国王を養父とする五人兄弟の三男。それぞれ違う四柱の神々を父親として、同じ人間の母親から生まれた異父兄弟のうちのひとり。
そしてこの王子たちは『マハーバーラタ』の主役格であり、長い長い大規模なお家騒動の最後の勝者である。
アルジュナは兄弟のなかでもとりわけ見目麗しく、心身共に健やかで、頭脳明晰かつ武芸に秀でており、親兄弟や友人への礼節や義理を何よりも大切にしたといわれる英雄。慕われ、期待され、神々にも愛され、その期待に応え、常に「正しさ」を選び続けて勝利し、晩年は孫に王国を任せてヒマラヤで隠遁し息を引き取った。アルジュナというその名前からして、潔白な立ち振る舞いからつけられた“白”という意味をもち、物語における「正しき人間」の具体化を担う人物でまちがいないとおもう。
けれどそのアルジュナが、そんなアルジュナでさえ、心の奥底では他人を疎んだり、恨んだり、憎んだり、それをおとしいれたり排除したりしようとするどす黒い感情や、その才知ゆえの狡猾さを持っていた、というのがFGOでえがかれるアーチャーのアルジュナというキャラクター。彼自身がそんな自分を自分とは認められず、そんな自分はあってはならないものとして、“黒”を意味するクリシュナという名前をつけた別人格としてそれを意識の深淵に隠れ棲まわせていた。
誰も私に期待などするな、私のこの黒い感情を見るな、私をひとりにしてくれ、と声に出せず叫びながら、表面上は完璧な英雄であり続けようとしていた。だから、万が一にでも自分のなかのクリシュナを見た者=それが見えてしまうほどに絆の深まった者がいるなら、生かしておくわけにはいかなかったのだ、というのが彼の幕間の物語2で語られたこと。
はたして彼がそれほどまでに黒の自分を恥じたのは、周囲から「アルジュナは必ず正しい」「彼こそが輝く王冠にふさわしき英雄」ということを求められすぎたせいか? 親兄弟や民たちを愛する気持ちは本物であったがゆえ、その期待を失うことをおそれたのか? それとも、それすら邪悪な感情だと唾棄するべきかも知れない、ただの驕慢なプライドを保つためだったのか?
ちがう。
“アルジュナは非の打ち所のない英雄でありながらその性根に黒い感情を持っている” それをアルジュナ自身がゆるせなかったのは、彼が真実ほんとうに、ほんとうは誰よりも高潔で誠実で、ただそのことに不器用なだけのひとだったからだ。
二部四章のバサジュナの姿をみていて明確にそう感じた。だからこれは決してアルジュナsageのストーリーなんかじゃないと、わたし個人のそういう気持ちをここでは話します。
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その前に、すこしカルナのことも。
『マハーバーラタ』のカルナは、アルジュナたち五兄弟よりも先に同じ母親から人知れずうまれた異父兄。
この母親というのが「任意の男神さまの子を何人分でもうむことができる」という夢女もびっくりのまじないをさずかっている女性で、彼女が「こんなまじない、ほんとうに有効なのかしら?」くらいの気持ちで発動したらうっかり実行されてしまったいちばん最初の太陽神とのあいだの子がカルナ。ただそのときに彼女はまだ未婚で、父親のいない子が周囲に見つかることを怖れてカルナを捨ててしまう。カルナは貧しい馭者に拾われ、その時点で、のちに一国の王の養子となるアルジュナたち兄弟とは越えられない身分の隔たりができてしまった。
カルナはそのまま母親の顔も、自分に異父弟がいることもまるで知ることなく育つ。(父親が太陽神スーリヤであることだけは、生まれつき肉体に一体化するよう授けられていた黄金の鎧の存在で認識していた)
そうして身分の低い貧者として長じ、さげすまれ、奪われ、苛まれ、日陰者の憂き目に遭い続けたカルナは、それでも、他者を恨まず、妬まず、養父母に尽くし、父である太陽神への礼を忘れず、僧侶が施しを求めてきたら何であれおのが身を削ってでも与えるような人物だった。『マハーバーラタ』の物語のなかで、アルジュナたち「正義」と相対する「悪」である勢力(アルジュナたちの従兄弟であり、アルジュナたちと王位を巡って争う百人兄弟)にカルナがさいごまで味方したのも、自分の武芸の才能をうまれて初めてかってくれた頭目のドゥルヨーダナへの恩義をつらぬくため。
こういったことから、FGOでは先のアルジュナが「善の立場でありながら悪心を持つ」者として、カルナは「善の心をもちながら悪の立場に立った」者として、一見、対極に位置するように思わされる。
ただ、そのカルナは『マハーバーラタ』でもFateでも、どんなに高潔な心をもちどれほど清貧な生きかたをしていようとも、ただ唯一、自分の持って生まれた武芸の才能、それを以て戦士となる夢と野心だけは捨てていない。『マハーバーラタ』でのとある武芸大会で初めてアルジュナの姿をみたとき、彼の放った矢をみたときに、その野心は「この男を越えたい」というまっすぐで一途な執心へと燃え上がるように昇華した。Fateにおいてサーヴァントとしていくたびもの第二の人生をなぞるようになった今もなお、カルナはその気持ちを隠すことはしない。
そんな私情きわまりない執心という感情は、今回のバサジュナが「不要で、不出来な、邪悪」と断じるものにふくまれるだろう。とすると、カルナもまた、決して善の心だけの人物ではなく、善と悪との両方を抱えて生きているひとなんだということになる。
そしてそれはわたしたちの眼前にも、誰だって暗くて汚い気持ちを持つことはあるし、それでもやさしく正しくありたいと願う心だってある、と、にんげんが生きているうえでどうしようもなく欲している許しを与えてくれる結論にもつながる。
「善の立場にありながら、悪たる執心を持ち、それでも善であろうと願う」アルジュナと、「悪たる執心をも持ちながら、善なる心から、悪の立場に与す」カルナとは、決してちがうものじゃない。彼らは同じくらい、同じ人間だ。
どちらが正しくて間違っているとか、どちらが優れていて劣っているとか、そんな段差は存在しない。同じだからこそ、相手を認め、許すこともできるのが人間同士なんだという、ただそれだけのかけがえない事実があるだけで。
だから、アルジュナの幕間2にせよ、今回の二部四章にせよ、(かけがえのないマスター以外では)アルジュナに
「おまえはおまえのままでいいんだ」
と言ってくれるのは、いつだってカルナなんだ。
カルナはアルジュナを知っている。血のつながりの因果など越えたところで、彼らはお互いにひと目会ったときから「こいつを凌駕したい」と燃え上がった者同士だから。貧者ゆえに他人を見抜く目にすぐれ、誰よりも真正面からアルジュナを見つめることのできるカルナのその瞳が、そういうかたちの絆をもってしてアルジュナのなかの“黒を”見抜いた。そして決してそれだけでなく、その“黒”を自ら愛し、憎み、もがいているアルジュナの、ほんとうのほんとうに高潔で誠実な部分をもカルナはちゃんと感じ取っていた。
それは今回のカルナの
「オレの知っているアルジュナは神ではなかったが、不出来かもしれない自分を見据える目はちゃんと持っていた」
「不完全でありながら、それでも完全を目指そうとするおまえこそが正しいおまえだった」
という台詞からも分かること。
ただ、生前のアルジュナにはそれが分からなかった。カルナが自分の“黒”を見抜いたことは知っていても、アルジュナ自身がそのさきにあるほんとうの自分の“白”たる部分を信じきれていなかったから。彼はただカルナのその目が恐ろしく、カルナの高潔さが妬ましく、そんなカルナと向き合い続けなくてはならない戦いに疲れ、戦士としての道義にもとるやりかただと分かっていてもカルナを殺さずにいられなかった。
だからアルジュナはカルナを殺してしまった。
そうしてカルナを殺したあと、今度こそ表面上の“白”の自分をおびやかす者はいない世界で、残りの敵すべてを滅ぼして王となり、公明正大で健やかな世界を築いて安らかに亡くなったのが、汎人類史のアルジュナだった。
(それでもその余生でずっとカルナを殺したことにとらわれ続けていた。カルナを殺してしまったことで恒久に得られなくなってしまった何かがあるような空虚を抱え、こじらせた末に、サーヴァントとなったいまそれをそのこじらせたままどうにかしようともがいたのが北米でのアルジュナだった。というのは、また別のはなしとして)
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じゃあ、今回の二部四章のバサジュナはなんだったのか。
まず彼やイヴァンやスカディや始皇帝らがいた「ロストベルト」そのもの設定として、「人類の歴史上無数に枝分かれしてきた可能性から続くパラレルワールドのうち、“我々が生きてきた汎人類史とは大きく異なる未来へ至るであろう分岐点”はこれまで過去のうちに(大いなる何かの意志によって)剪定されてきた」「それが剪定されないまま2019年に至った場合こうなる、という世界を、いまこうして汎人類史を滅ぼした異星の神が再現してみせてきている」という前提があって。
ロストベルトのバサジュナは、『マハーバーラタ』の時代のアルジュナという人物に「カルナを殺したあとで起きた可能性」のひとつだ。
カルナを殺したあともなお自分に鞭打ち、英雄たる期待に応え続けた可能性が汎人類史のアルジュナに続くとしたら、カルナを殺したことで糸が切れ、もう、自分をごまかすことにもくたびれ果てて、戦と戦を巻き起こす人間の邪悪を倦み、自らが絶対唯一神となってこの世の邪悪すべてを滅ぼそうと決心し、まず初めに(彼のなかの人格ではない、別に実在の神として存在した友人である)クリシュナ神の力を奪うべくその命に手をかけた可能性が、今回のロストベルトのバサジュナに至ったんだとわたしは解釈してる。
その神たるバサジュナの成り立ちについても、アシュヴァッターマンに霊核を借りる間際にカルナが言っていた。
「全ての神性を取り込んだと簡単にはいうが、それがどれほどの苦行であったかは考えるまでもない」
「あれは超越者ではない。多くの煩悶と決断と奮起の末にたどりついたひとつの答えだ」
と。
ここでさきほどの冒頭のはなしに戻るけれど、もしアルジュナの「正しい自分でありたい」理由がただ周囲の期待に応えるためだけだったり、うわべだけのプライドのためだけだったりしたら、そんな苦行にはとうてい耐えられるものじゃないだろうとおもう。ひとりきりで煩悶して決断して奮起してそこに到達できてしまったのは、きっとアルジュナ自身がほんとうはどこまでも正しく清らかでありたかったから。周囲がどう言おうと関係なく、そう願いながら人一倍の努力ができるひとというのはもうすでにとても“白”い心を持っているに等しいんだ。
そうしてこの分岐点を経たアルジュナが全能のちからを手に入れ、それが(もし世界によって剪定されていなければ)こうして何千年も続いたのは何故なのか。世界の意志以外に誰も彼をとめられなかったのか。どうして彼がひとりですべてを背負わなくてはならなかったのか。それは、こうして「そんなアルジュナという男を、神ではなく人間だとおもっている」カルナが、既に彼の目の前からいなくなっていたから。
カルナを殺したあとで起きた可能性だから、カルナという唯一のくさびになり得てくれる存在をもたない。もはや世界に剪定されるしかとまるすべのなかったバサジュナを、世界が剪定してくれなかったまま続いた未来で、主人公が未来のカルナを連れて救いにいくおはなしがこの二部四章ユガクシェートラだったんだとおもう。
(だって、カルナは既に生前の最期にアルジュナに救われている。それがアルジュナ自身にどれほどの悔いを刻んだとしても、「アルジュナほどの男が、戦士としての道義すらなげうってオレを殺そうとした。オレはアルジュナという男にとってそれほどの宿敵と認められた」と。自分が自分のすべてを賭けてでも越えたいと願った相手から、それほどの執心を返されることがカルナにとってはきっと自分が生まれ生きてきた意味となり得た。だからカルナはあのいくさでアルジュナに殺されたときに、微笑んだんだとおもっている)
(この部分こそがインド兄弟の果てしなく深く取り返しのつかないすれ違いなのかも知れない。でもカルナのその喜びは「カルナという男を卑劣な手を使ってでも殺したかった」というアルジュナのなかの黒をゆるし、うけとめたにも等しいこと。こうしてサーヴァントとして第二の人生を生きるにあたってカルナはふたたびアルジュナと戦えることを喜び、今以て宿敵であろうとするけれど、どこかカルナのほうが少しだけアルジュナよりもその点について達観しているようにみえることがあるのは、こうして彼の人生はもう既にアルジュナによって認められているからだとおもうんだ)
汎人類史のアルジュナがみた幕間の夢のなかで、彼のなかのカルナは彼に「おまえはおまえのままでいい」というようなことを言ってくれた。本物のカルナではなく、アルジュナのなかのカルナが、だ。だからあのアルジュナは深層心理では、あるいは、マスターとの絆を通して、そのことを自分のちからで分かりかけていたんじゃないだろうか。きっとそれをマスターの前で自分にいう誰かがいるとしたら、それは他のだれでもない、ずっとずっと真正面から自分と瞳を見交わし続けてきたカルナであろうということも。
そしてアルジュナは掴んだんだ。白か黒か、完璧か不完全かじゃなく、問い続けることにこそ意味があるんだという答えを。
彼のそばには、彼が心から「出会えてよかった」とおもえるマスターがいるから。そしてきっと、『マハーバーラタ』における決戦でカルナを殺したあともなお、ひとであることを諦めず、自分の痛みを真摯に抱えてもがきながら生きつづけてきた分、血なまぐさくて泥まみれでもまっすぐでうつくしく愛おしい「人間」としてのつよさを持って、彼はいまここに存在しているから。
これだけでももう、わたしはまったくFGOがアルジュナをsageてきているとは思わない。
神になった可能性の先のバサジュナには、それがなかっただけ。シナリオ内でカルナが話してくれたように、バサジュナは自分がひととして生きる痛みを捨てて世界を救おうとしてしまっていただけ。それすら結局は捨てきれていなかったこと(カルナのことを忘れていたようであった最初の頃でさえ「カルナの神性だけは決して取り込まない」というなにかがはたらいていたこと。そして終盤にみんなのがんばりとカルナの覚悟によって引き戻された人間味からふたたびカルナへの執心を燃え上がらせたこと。そもそも正しい神になるなら真っ先に自分のなかのカルナへの執心という邪悪を消し去るべきだったのに、それだけは消し去れなかった結果としてこの結末に至ったというバサジュナ自身の台詞)がわたしはたまらなくいとおしかったし、その姿を見られてとても安堵した。
世界によって剪定される以外にとまるすべのないほどのちからをもってしまった、それをもち得てしまったアルジュナを、カルナが同じ人間として、誰よりもアルジュナを知る者として、かつてアルジュナに救われた好敵手として、そして今回に関してはあまりにも無垢すぎる弟に対して初めて「兄」としてさえ、まっすぐ向き合ってくれたことがとてもとてもとうとかった。
だから、二部四章をプレイしていてアルジュナを「悪」だとはまったく思わなかった。作り手側もこのシナリオがそう断じられることのないように作っていると信じたい。
もともとFateとくにFGOの世界では、神は神の理と考えかたのうえで生きているだけというふうにえがかれているのであって、それは善悪で測るものではないとわたしはおもっている。神の仕業に人間が抗いたいなら、全力で抗って勝ってそれを阻止するしかない。善悪という尺度があるのは同じ理のなかを生きている人間と人間とのあいだのこと。そしてアルジュナとカルナという人間同士のあいだではその善悪すら同等すぎて相殺され意味を持たない。このふたりがお互いに納得のいく結末を迎えたならそれでよし、わたしには二部四章の決闘の結末はそう見えたからなにも文句はない。涙と鼻水で顔がべしょべしょ前が見えなくなるくらい燃えすぎて泣きに泣いたくらい。
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そんなこんなで結末としてはよかったし、可能性の理屈は分かるにしても、たしかに「それでもこのロストベルトの神がアルジュナである必要ってあった?」って言われると、そこだけ理由づけが物足りなかったような気は、まあ、ある。
ただ、二部四章の告知バナーの顔はバサジュナくんではなくぺぺさんである。これまではロストベルトにおける世界そのもののシステムとそれを作った君臨者と向き合うことで主人公たちがなにをおもうかというところにテーマが置かれていたけれど、今回は、これまでより一段階ふかく「クリプターという存在」との向き合いかた、そのクリプターと同じ人間として近づくことで主人公たちが今後なにをおもっていくのか、ということのほうにテーマが移ろっているんじゃないか、だからバナーの顔もぺぺさんなのではないかなとわたしは感じた。
ちょうどこのぺぺさんで二部は真ん中だし、ぺぺさんはたくさんの議題を主人公たちに投げかけてくれた。これから残り三章がどんな展開になるのかを楽しみに待つには、四章は充分おもしろかったとおもうし、キャラクターたちの様々なせりふが自分の胸にもたくさん響いたよ。
それでどうして世界がインドである必要があってアルジュナやカルナやジナコちゃんなの?っていわれたら、今後のシナリオでそこに意味があると明かされるなら別だけど、そうでないなら「作り手がそこをえがきたかったから」でいいんじゃないだろうか。
わたしはインド兄弟箱推しだから、自分の推しが公式の担い手に「彼らのことをえがきたい」っておもってもらえてそれがかたちになってプレイできた結果として、二部四章はとてもよかったとおもっている。
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インドが舞台の四章に「ユガクシェートラ」というタイトルをつけたのは、『マハーバーラタ』でのアルジュナとカルナの決戦が起こった「クルクシェートラ」を連想させるためだろうと思ったし、あの新しいバーサーカーがアルジュナだと判明して、告知CMをみたときに、ああ、たぶんクルクシェートラでのアルジュナとカルナの勝敗がユガクシェートラでは変わるんだろうなって予感をわたしはしてた。
だからアルジュナという名前の存在を倒さなくてはいけないということ自体に急激な驚きやショックは受けなかったんだけど、それは同時に「ただカルナがアルジュナに勝つという結果」ではなく、「今度はカルナがアルジュナに勝つことによって、クルクシェートラでカルナに勝ったアルジュナが抱いた悔恨や空虚をもすくいあげてくれるストーリー」を期待していたからでもあって。
じっさい見事にそのとおりだったとおもうから、二部四章はほんとうに熱かった。
クルクシェートラに挑む際には、不利な呪いをかけられていたりその黄金の鎧を失っていたりしたカルナが、ユガクシェートラでは仲間から貸し与えられた霊核と武器とをそのちからにしたことも熱かった。
クルクシェートラのときには、カルナはアルジュナたち五兄弟を心配する母親からの懇願によって彼らの兄であることを枷とさせられ、いっぽうのアルジュナはカルナが兄だなどとは夢にも思わず殺し合ったけれど、ユガクシェートラではカルナは自分がアルジュナの兄であるという自覚を自らの覚悟の力にかえ、バサジュナもたぶんカルナと兄弟であることはとっくに知っているだろうから、今回の彼らは宿敵であると同時に兄弟としてもぶつかりあえたとおもう。
そういえば『マハーバーラタ』でカルナが味方した悪役のカウラヴァ側のことも、アシュくんが「あいつらはロクデナシだが、ロクデナシなりに筋通して死んだ」って言ってくれたのむねあつだったなあ。
あと個人的に、カルナに「降りてこい」って言われてすなおにスッと降りてくるバサジュナくんかわいすぎて大好きです。
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汎人類史のアーチャージュナくん、インド異聞帯の記録をみてなにをおもうんだろう。
そこが掘り下げられなかったの残念っていう意見も分かるけど、もしもこっちの、どこまでもちゃんと「ひと」として生きているアルジュナくんが隣にいたら、カルナはあそこまで「神」のアルジュナくんとタイマンで戦えたかなっていう気もするから、アーチージュナくんが今回お出ましにならなかったのはシナリオのまとまりとしては異論ない感じもある。
バサジュナくん召喚しておいしいものたくさん食べてほしくてたまらないけど、今はアルジュナくんとカルナが通常のカルデアで仲良くケンカしてるところが見たい気持ちが限界突破寸前です。
インド兄弟がとうとい。結論。