鋼鉄都市シリーズひとまずよみおえて、デヨとの「ビカムヒューマン」の違いについて思ったこと。
ものっそネタバレしてるけど、「ロボットと帝国」はデヨクラスタの6割くらいが死ぬと思うのでぜひそっちを読んで欲しいなぁ。
※『ロボットと帝国』には、「親しい人間の死に、その人間とロボットがどう向き合うか?」という激アツ看取りシーンがありますよ。ほんとにいいんですか?
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刑事ベイリ(人間)とオリヴォー(ヒューマノイド)のコンビを主人公に、人間とロボは全く別!ロボ嫌いもわかるよ!人間はロボに頼りっきりではいけない!でもロボはホント良いやつ!うまく付き合おうぜ!みたいなノリだった鋼鉄都市シリーズも、最後にはオリヴォー(ロボ)が3原則の檻を突破してしまう。
ここ読んだ時、デヨ脳の私はうわ壁破っとると思いました。
でも、この変化を描くためには、『帝国』丸ごとと、前3作の土台が必要だったわけで。
『帝国』ではメインプロットの合間を縫って、3原則を突破するキーとなる第0法則の可能性についてオリヴォーとジスカルド(ロボ)は延々と会話を繰り広げるんですが、「飽きる」というレビューもまあわかる、ってくらい長いんですよ。私は好きだけど。
あと、ベイリ(人間)とオリヴォーが友情を築いていく過程が3作文たっぷりあったからこそ、自分の死がオリヴォーの第1条に抵触して機能障害を及ぼすことが無いようにと残したベイリの遺言が、地盤がひっくり返るようなこのオチに強力な説得力を与えたと思うんです。
一方でデヨでは赤い壁パリーンでさっくり変異してしまい、あとは社会との対立の話になっていきます。
私はてっきり、副題のビカムヒューマンというのはこの変異から始まる内面の変化を指しているのかと思っていたんです。
でも、乱暴な言い方をすると、アシモフ師匠が4冊かかったものを数章で描くのはハナから無理があるよな、そうではなくて、デヨが描きたかったのは社会的な立場、権利、尊厳的な意味でのビカムヒューマンだったのかと思うと、割といろいろ腑に落ちました。
アシモフおじさんが4冊かけて内面のビカムヒューマンを描いたのに対し、デヨはそこは数十秒のボタン操作でさっくり終わらせ、あとは社会的なビカムヒューマンに焦点を当ててる。
この、「どのような理屈で変化したか?」というロジック(SFにロジックは欠かせない)を潔くぶっ飛ばし、社会面に焦点を当てているところが非SF的と言われる所以なんじゃないかなーと思いました。