初日から王様についてずっと考えていた結果のファンフィクションです。大千穐楽を観て加筆修正する予定だったけど、このままの勢いで出す!答え合わせに正解できる気はしない!!
『簒奪の王は戦乙女の夢を見るか』
#憫笑姫2022
奪われたから、奪った。
最初は、ただそれだけだった。
けれど奪えばさらに奪おうとする者、掠め取ろうとする者が現れる。
故に、薙ぎ払った。叩き潰した。繰り返すうちにひれ伏す者が増えた。施せば感謝され、慕われた。思いのほか、容易いものだ。かの王も、こうして民心を得ていったのだろう。
施政者としては及第点、だがその中身は獣にも劣る倫理観。欲しいものは何としてでもその手に収めた。――それがたとえ、幼子の母であろうとも。
サミュエル自身のことではない。先王だ。正妻や側室では飽きたらず、端女でさえ目が留まれば寝所に呼んだ。英雄色を好むと言えば聞こえがいいが、病的なまでの放蕩ぶりに周囲は振り回されてばかりいた。
中流貴族の父も、その一人だった。
鹿狩りの仮宿として提供した館で、先王は女を見初めた。
そして、奪った。
父から、妻を。サミュエルから、母を。
逆らえば、首が飛ぶ。領民までもが犠牲になる。だから父は色が変わるほど拳を握り締めて耐えた。母は血が滲むほど唇を噛んで耐えた。
サミュエルは――サミュエルは、どうしていただろうか。いつだって、その瞬間のことは思い出せない。ただ残るのは、強い憎しみの記憶。
いつか、奪い返す。そのために、強くなる。
王を弑する罪をも乗り越えるほどに、強く。
「……退屈なものだな」
「は」
「あやつらとの小競り合いなぞ、飽きた」
別に王位に付きたかったわけではない。ただ、殺せればそれで良かった。そのあとで首を刎ねられても文句は言わなかっただろう。
しかし貴族らはサミュエルを次王と認め、担ぎ上げた。奪い返す気概もなかった奴等が何を、とも思ったが老いた父が喜んだので御輿に乗った。その父も、三年ほど前に死んだ。胃の病だった。
母は、見つからなかった。方々を尋ねたがわからぬと言われた。誰を奪い、誰を壊したかなど数えていられぬほどに先王は、女たちを次々に使い潰していったのだ。孕んだ女は身分によって振り分けられたそうだ。後宮で産むもの、里に帰されるもの、そして捨て置かれるもの。
世継ぎ候補として育てられていた皇子も、外交に利用するために残された皇女も、両手の指では数え切れなかった。
斬り捨てる途中で嫌気が差して、残りは傍らのモールドに任せた。眉一つ動かさず、縛られた子どもたちを次々に絶命させていく様は、さながら死神のようだった。
そして、積み上げられた死体の上で、サミュエルは旗を掲げ、哄笑した。
「いっそ本気で奪いに来ればいいものを」
先代から続く隣国との争いは、長く膠着状態を続けていた。一度だけ用意された和平のテーブルは、この国を属国とするに等しい理不尽な提案によって砕かれた。サミュエルが王の血統ではないが故の所業であろう。
だが、血に何の意味があるというのだ。臣下から女を奪い続けた先の王が、民の上に立つに相応しかったとは到底思えない。
国自体にさほどの執着はないが、見下されて良しとするほど愚かでもない。向こうの大使の耳を削ぎ、「否」のひと言だけ書いた書状を添えて帰した。
以来、国境の城は繰り返す紛争の地として高い壁と名もない戦士たち――ただ一人を除いては――とで維持されている。
「生贄でも捧げるか」
「今度は、どんな」
「身寄りのない若い女がいい」
神など信じてはいない。ただ、戯れのため。
望みなどない。ただ、享楽のため。
血と涙に汚れ、誇りを踏みにじられ、それでもなお生きようとする魂を捧げよう。サミュエルは顎を上げ、モールドを外へと促した。
贄は、いずこに。
「あそこに」
骨張った指先が示すのは、二人の女たち。揃いの服を着ているところを見ると、姉妹のようだ。動きが大きく、粗雑な方が姉だろうか。妹に絡む若者を、威嚇して追い払った。ふわふわと姉の後を追うのが妹だろう。
「まだ子供ではないか」
「栄養が足りてないだけですよ」
痩せぎすの姉は、妹が手を貸そうとした老爺を背負って歩く。俯く額に、黒髪がかかる。鬱陶しそうにそれを払った瞬間、顔が露わになった。
はっきりとした弧を描く眉、意志の強そうな瞳、丸みのある鼻、大きく開かれた口。
どれも、見覚えのあるものだった。
「……まさか」
「さすが陛下」
皮肉めいた笑みを浮かべた側近に、サミュエルは肩を竦める。
視線の先には、踊る姉妹。翻る裾、響く笑い声。楽しげに目を細める姉、口を尖らせておどける妹。
「似ている」
「ご落胤の可能性はおおいに」
「よく見つけた」
「偶々、ですよ」
蛇の道は、というものか。長年側に置いてはいるが、未だ底知れぬ男だ。
ともあれ、生贄は決まった。次は、いかにして城に連れてくるかだ。拐かすには、妹が邪魔だ。二人同時はさすがのモールドでもいささか荷が重かろう。
「いっそ召し上げるか」
「育て上げるには骨が折れそうですが」
「ふん、お飾りの妃にするものか」
いまだ側室すら持たぬサミュエルを、口さがない民どもはあれやこれやと噂する。その口を塞ぐ程度には役に立とう。
手折るにはまだ蕾ですらない娘だが、勝気な瞳が翳ってゆく様を思い浮かべれば、多少は愉しい気持ちになった。
「陛下が女人に求愛なさる姿を見れば、民も喜びましょう」
「偽りの愛でも?」
「何事も、形が大切なのですよ」
兵法書に書かれた手本のように、正しい剣筋を人並外れた速さで再現する男はそう言った。
形、か。
町娘を見初めた王が、ある日彼女を迎えに来る。目を疑う民衆たち。
しかし王は真摯に愛を伝え、娘の手を取る。御伽噺の姫君のように、夢見心地で王宮へと上がる娘。幸せに暮らすだろう姿を思い浮かべ、民は詩歌を作るだろう。
「ならば形とやらをご教授願おうか」
「私が、ですか?」
片眉を吊り上げる側近に、王はにやりと笑う。
「お前にできぬことなどないだろう? 『クロウ先生』」
「……相変わらずお人が悪い」
「今さらだ」
果たしてモールドの付けた稽古は見事な成功を収めた。
戸惑いながらもサミュエルの手を取った娘――ミラという名だそうだ――は、力強くも優しく引き寄せる腕にいつしか身を任せ、求愛のダンスに応じることとなった。
でき得る限りの甘い眼差しを注げば、痩せた頬は赤く染まる。恥じらって震える睫毛を眺めながら、舞踏会で愛を語らう未来もあっただろうことに想いを馳せる。
かつての家庭教師からは武術や学問だけではなく、社交場での礼節も教えられていた。母を練習相手に、習ったばかりのステップを踏んで、ついでにドレスの裾までも踏んで。よろけながらも楽しげに笑った母。それを眺めて笑う父。釣られて照れ笑いを浮かべるサミュエル。
幸せな、家族の肖像。懐かしく、あたたかな記憶。優しいぬくもり。
「では、そろそろ」
促す声に我に返ると、腕の中で娘は蕩けるような表情を浮かべていた。
「……王宮で、待っている」
そう言い残し、体を離す。こくこくと壊れたぜんまい人形のように頷く娘。どうやら、それなりには演じられたらしい。
「お上手でございました」
「趣味が悪い」
「それこそ今さらです」
さて、ここからは悪辣の王に戻ろう。手のひらにいまだ残る体温を振り切るように、サミュエルは足を速めた。
奪われたものは、奪い返すしかないのだ。
サミュエルに突き倒された衝撃とそこから広がってゆく嘲笑に、娘は呆然としていた。贅沢な刺繍が施された絨毯にへたり込む。
どうして、と目が訴えている。
自分は愛されるために選ばれたのではないか、妃として傅かれるために連れて来られたのではないか、それなのに、どうして、どうして、と。
それには応えず剣を差し出した。
貴族たちの期待に満ちた笑み。舌なめずりする視線。日常に飽いた者らは、無遠慮に刺激を求めていた。
「我が妃となる女だ。ここから先、此れに禁軍を任せる」
信じられない、という表情。先ほどまで紅潮していた頬は色を無くし、口元は驚きの形のまま固まっている。
「皆、勇敢なる王妃を讃えよ。我に代わり前線に立ち、その身を持って騎士らを鼓舞する旗となる女だ」
芝居がかった言葉と共に乾いた拍手を送れば、追従するようにまばらな音があとに続く。耐えきれず、吹き出す者もいる。それに応えるようにサミュエルも唇の片端を引き上げた。
みな、知っているのだ。これは王が行ういつもの遊戯だと。
わからないのは、哀れな子うさぎのみ。
小刻みに震える細い肩を一瞥し、サミュエルは広間を後にする。
さて、これからどうする?
無様に野垂れ死ぬか、それとも必死の思いで逃げ出すか、はたまた運良く生き残るか。
真に王の血を引くものなら、運命は覆るだろう。筋書きのない叙事詩が、ここから始まるのかもしれぬ。
久しく感じることのなかった高揚感に、彼は声も出さず嗤った。
「王妃がご帰還なさるそうですよ」
「……生き延びたか」
「そのようで。ケイレブにまた小言を言われてしまいます」
「あれについていける新兵などいるものか」
「はは、確かに」
短く笑うと、モールドは懐から小さな箱を取り出す。宝物庫から見繕って来たのだろう、開ければ無数のダイヤを散りばめた首飾りが入っていた。シャンデリアの光を受けて、きらめいている。
「いかがでしょう」
「仰々しいな」
「それをお望みでしょうに」
豪奢なドレスの胸元に飾れば、周囲からは嘆息が漏れようものを。
けれどいま求められているのは、憐れみ、そして蔑み。屈辱を与える憫笑だ。
「……あっ」
震える指先は、落としきれなかった泥で薄汚れていた。髪は乱れ、額に汗で張り付いている。粗末な戦装束はところどころが破れ、ほつれている。
高価な褒美にはおよそ相応しくないいでたちで、娘はそれを受け取ろうとし、しかし誤って落としてしまう。
どっ、と起こる笑い声。
取り繕おうと必死に惑う娘は、やがて迎え入れられた妹の姿を認める。途端に、表情が変わった。
首飾りを掲げ、無数の笑いを掻き消すように、ひときわ高く、大きく笑う。まるで泣いているかのような、哀しみと痛みに満ちた笑い声だった。
しかしひと粒の涙をも見せず、彼女は頭を下げて礼を言う。そして背筋を伸ばして、去って行った。
「弱いくせに、折れぬな」
「守るものがあればこそでしょう」
「妹か」
「美しいものですね」
白々しいせりふに、サミュエルは苦笑する。
いつまでその虚勢が持つものか。
命削る戦場で、家族の情がどこまで続くものか。
守るものがあれば、それだけの力量が必要となる。自分ひとりの命すらままならない新兵が、荷物を抱えてどれだけ戦えよう。
だが、しかし。
その荷物が意思を持ったとしたら。
「なかなか面白くなってきた」
「楽しそうで何よりです」
「お守り役は気の毒だがな」
伝令によって、姉妹の帰還が知らされた。
妹を守り、姉は敵将を仕留め生け捕ったのだという。初めての戦いではみっともなく震えていたあの娘が、人を刺せるほどになるとは。それほどまでに想い、慈しめるのか。
言い出したのは妹からではあるが、そのように仕向けたのは他でもないサミュエルだ。守られ、庇護されてばかりでお前は良いのかと、言外に滲ませた。自分も戦場に、と絞り出すように乞われた時には笑みを押し殺すのに骨が折れた。
共に戦おうとする妹、あくまでも守ろうとする姉。そして、敵とは言えど人を傷つけたのは姉。
いったいどんな表情を浮かべているのか、とくと見てやろう。広間に向けて王は足を進めた。
むせかえるような血の臭い。さらには汗と泥とが混じり合い、眉を顰めるような悪臭がそこには漂っていた。
この臭いを、サミュエルはよく知っている。王都でのうのうと暮らす貴族にはわからないだろう。敵意と、興奮と、屈辱と。剥き出しの感情がぶつかり合う戦地の臭いだ。
捕縛され、うつむく敵将の傍らには、こびりついた返り血を拭うことすらせずに立ち尽くす娘。剣を抱え、魂が抜けたようにぼんやりとしている。その顔を見て、サミュエルは何故か安堵している自分に気づいた。娘が意気揚々と立っていたら、おそらくはその場で殴り捨てたであろうくらいに。
実際には、殴られたのは娘ではなく。
縄を振り解き、王に襲いかかった敵将の方だった。
心まで折るには太刀筋が甘かったのだろう。
だが、いまはそれで良い。
「王妃よ、見るがいい。これが戦争だ。これが――人を殺めるということだ」
モールドを制して娘の剣を取り、サミュエルは敵将を斬る。叫び声をあげ、絶命してゆく男。貴族たちの喝采。
悔しげに歪む娘の唇を視界の片端に認めながら、王はその場を後にする。
強くなってみよ。
誰かを守りきれるほどに。
そして、奪いに来るほどに。
「強くなられましたな」
「ケイレブの、あの得意そうな顔よ」
年月を重ね、娘たちは少しずつ変わっていった。
最初は姉が、次に妹が。ついには女官たちもが騎士団長へと教えを乞い、成長を果たした。今ではひとつの小隊として軍内で確固たる地位を確立している。
恐る恐るだった号令は、いつしか自信に満ち溢れたものになり、付き従う声も大きく増えていった。気品すら漂う佇まいに、血の因縁を感じずにはいられない。
一方で、慈しみに満ちた瞳で彼女らを見守るケイレブに、サミュエルはなんとも言えぬ苛立ちを覚える。ぎらぎらと獲物を狙い、斬り捨てていた頃の彼とは違う、あたたかな笑み。振り返ってケイレブの笑みに気づき、得意そうに手を挙げる娘。
それは、己が求めていたものではなかった。
険のある眼差しで、女隊を睨め付ける王。その苛立ちは、澱のように彼の中に溜まり、ある日爆ぜることとなった。
きっかけは、とある兵士だった。
名も知らぬ彼は王である自分ではなく、軍を率いる娘に敵襲の報を告げた。
――お前も、それを認めるのか。
必死に詫びる言葉は耳には入らない。
非礼に腹を立てたわけではないからだ。
怒りのままに切り裂き、割れるかんばせ。のたうち回り、苦しむ兵士。
いっそ、あれにも傷を与えようか。ひときわ醜い、消えない傷を。死よりも苦しい痛みと恐怖を。
「モールド」
「は」
「頼みがある」
「……仰せのままに」
有能な側近は、娘の顔のみに大きな太刀傷を負わせた。斜めに入った裂け目は一生残るであろう。若い女にとって、それはどれだけの苦痛だろうか。おそらくはもう、戦場になど立てまい。
娘は痛覚を荒らされ混乱していた。よろめき、まっすぐにすら歩けない。
それでもなお、貴族たちの嘲笑から妹を守ろうと転がり出てきた。不恰好に巻いた包帯から覗く、涙と鼻水で歪んだ顔。蔑む笑い声に傷つき、妹を守れぬ無力さに絶望し、膝をついて蹲る。
サミュエルは満足そうに笑む。
が、果たされたかに見えた望みは一瞬の衝撃とともに砕け散った。左頬が灼けるように熱い。
妹に殴られたのだと気づいたのは、彼女が姉の手を引いて部屋を去って行った後だった。ケイレブが女官たちに何事かを告げ、女たちが走り出す。
まだ、守るのか。
戦士としては役立たずになった姉を、彼女を傷つけた王に怒った妹を。
激しい怒りが噴き上がる。
それは、お前たちの役目ではない。戻れ。戻らぬのなら斬って捨てよう。
「反逆の徒を捕らえよ! 殺しても良い、全員の首を揃えよ!」
叫べば、呆れたようにケイレブが首を傾げる。お前に、何がわかる。
「王よ――いや、サミュエル坊やよ、何をそんなに怒る? 自分のしたことのしっぺ返しを喰らっただけじゃないか」
「俺は王だ。王に歯向かえばどうなるか、わかっておろうが!」
「それをお前が言うのか?」
問われてサミュエルは言葉に詰まる。
そうだ、自分もまた、王に歯向かった人間だ。幼い怒りのままに鍛錬を重ね、王を弑した反逆者だ。
殺されなかったのはただ、先王に不満を抱いていた貴族たちにとって、サミュエルの存在が都合の良いものだったからだ。
殺される覚悟はあった。
王になりたかったわけではない。
奪われたから、奪っただけだ。
しかし母は見失い、父も死んだ。
もう、先王から奪い返せるものは何もなかった。
「あいつらは、坊やから何も取ってない。むしろ、あいつらも奪われた方だろうがよ」
「黙れ」
「自分だけが可哀想とでも思っているのか? そんなんじゃ、いつまで経っても九つの坊やのままじゃないか」
「黙れと言っている」
「怒ってもちっとも怖くないぜ、サミュエル坊や。こっちは、あんたが泣きながら剣を振っていた頃からの付き合いなんだ」
鍔迫り合いを繰り返しながら、ケイレブは根気よくサミュエルに語りかける。
粗雑だが、温かいその語り口が懐かしい。兄のように、父のように、サミュエルを育てた男。そうだ、ケイレブは幼い自分にも優しかった。唐突に思い出し、と同時にその記憶を手放そうと試みた。
郷愁は人を弱くする。それではこの男には勝てない。
サミュエルは斜めに剣を振るった。手応えはある。だが、まだ浅い。
「俺は嬢ちゃんたちに付くぜ」
「一人残らず殺すまでよ」
「そいつはどうだかな。あいつらには、生きるための剣を教えた」
なんだ、それは。
サミュエルは、そんなもの知らない。教えられてなどいない。
「俺も歳を取った。だからわかった」
怒りのままに剣を振り抜く。サミュエルの感情までも受け流すようにケイレブはそれをあしらう。
戦意の中に感じるそれは、なんだ。
「人は、それでも生きていかなきゃならないんだよ!」
一瞬の隙を縫って駆け出した背中を、サミュエルは追う。女らに合流するつもりだろう。そこにモールドが向かっていることに気付かぬ騎士団長ではない。
追いつく前に、斬らねばならぬ。
足が重い。息が切れはじめた。
こんなにも駆け回ったのはいつ以来だろうか。
日々の鍛錬は欠かさなかったものの、それは敷き詰められた石畳の上でのもの。叢をかき分け、木々を避けるように走るのは思っている以上に体力を消耗する。
この中を、娘はいつも駆けていたのかと思う。名ばかりの王妃として。
自分で命じておきながらもサミュエルは、何故そんなにも娘が戦い続けたのかと思う。
憎しみでもなく、野心でもない。
死なぬため、生きるため。それ以上の何かが彼女を動かしていたように思う。
それを知りたいと思った。だが同時に、知りたくないとも思った。
知ってしまえば彼女と自分との違いと向き合うことになるだろう。そんな予感がした。
「エラ!」
「お姉ちゃんはどいてて!」
剣を抱えたまま震える姉を、妹は思いきり突き飛ばした。そして、こちらに向き直る。
敵意にきらめく瞳。髪は乱れ、頬は薄汚れてはいるが、今までで一番美しく見えた。
この美しさの絶頂で、手折ってやろう。
サミュエルは妹を一瞥し、大きく振り抜いた。咄嗟に受け止めようとしたものの、剣撃の重さに吹っ飛ばされてゆく。受け身を取る余裕もなく地面に叩きつけられ、うめく妹。
さあ、見ろ。お前が守ろうとした妹は、お前を守ろうとして死ぬ。
声にならない悲鳴。息を呑む気配。振り上げた剣を、全身で止めたのは。
「お姉ちゃん!」
姉の、剣だった。
鞘から抜かれ、しっかりと両手に握られている。余裕こそないものの、その瞳に生気が戻りつつあるのをサミュエルは感じた。
そうか、まだ立つか。まだ振るうか。
「それでこそ、我が妃よ。我が国の戦乙女よ」
「離縁を願います!」
ならば、叩き斬るまで。
そう、お前を殺すのは我が役目。
そして、我を殺すのは、お前の役目だ、ミラ。誰にも邪魔はさせない。
走り回り、追いかけ、追いかけられ。
破れそうな心臓の早鐘を聞きながらも、いつしかサミュエルは笑っていた。
剣と剣とがぶつかり合うたびに、長年こびりついていた汚れが削ぎ落とされていくような感覚を覚える。
さあ、もっと斬り合おう。
これこそが我が求めた物語。魂のすべてを刈り取る、命の攻防。
「師匠!」
「呼んでないぞ、ケイレブ」
薙ぎ払おうとした剣先を止められて、サミュエルは眉を顰める。
「お呼びでなくとも来るのが性分でね!」
いくつもの首級を挙げて戦地を駆け巡った鬼将は、血塗れの腕で剣を繰り出す。その隙間から、ミラも斬りかかる。
「素晴らしい師弟愛だな」
「坊やも混ざるかい?」
「いつまで経っても冗談が上手くならないな」
「今ならわたくしたちもついてきますわよ、陛下」
振り返れば妹とともに女官らが追いついて来ていた。
モールドは、どうしたのだ。狼狽しつつもサミュエルは四方から振り下ろされる剣撃をかわす。よく見れば女たちも傷だらけだった。自身の血か、それとも返り血か。判別もつかぬほどに赤褐色の染みがそこここに広がっている。
それでも、ここに立っている。まだ動けている。
ケイレブが教えた生きるための剣とやらは、それほどにも女らを強くしたというのか。
ならば、潰そう。一人残らず、折ってやろう。
残虐を尽くす悪王として、反逆者は皆殺しにせねばならぬ。
サミュエルは柄を握る両手に力を込めた。
いまだ塞がらぬ傷口に爪をかければ、痛みに顔が歪む。しかし目だけはぎらぎらと光り、サミュエルを睨みつけてくる。
「なぜ、そんなにも戦う?」
思わず、問いが漏れる。
大きな口をきつく食いしばり、ミラは叫んだ。
「この国のみんなを守りたいからに決まってる!」
国、か。
妹だけをひたすらに守り続けた姉は、いつしかその翼を広げて民までもを守ろうとしているのか。
「……王妃様はご立派なことだな。なれば玉座につくか」
サミュエルの揶揄に、彼女は悔しげに首を振った。
「そんなことがしたかったわけじゃない!」
「だが、我を斃せば叶う」
「馬鹿!」
いま、何と言った。
なぜ、罵倒されねばならぬ。なぜ、我を馬鹿などと言う。
目を見開く王に、王妃はなんでそんなこともわからないのかと言わんばかりの表情で応える。
「あなただって、この国の『みんな』でしょ、サミュエル・ランカスター・ウィリアムズ」
「な……」
「街の人たちは言ってた。今の王様になってから、女衆が安心して外に出られるようになったって。後宮に使う予算が浮いたから、税金が軽くなったって」
民とは、なんと善良なものか。
サミュエルが先王憎さに一掃したあれやこれやを、新王の手柄として受け止めていたのか。
信じられない思いで、彼はミラの言葉を聞く。
「だから、あたしにとってはあなただって、『みんな』だった」
「恨みはないのか」
「ないわけないでしょ。騙されたって思ったし。こんなに性格悪いなんて思わなかったし」
「な」
「でも、あなたのおかげでお腹いっぱい食べられるようになったから! だから恩は返してたつもり」
――なんという女だ。
サミュエルは呆れにも似た驚きに溜息をつく。
一宿一飯の恩を感じるにはあまりにも、サミュエルの行った仕打ちは酷いものだったはずだ。それなのに、事もなげな顔でミラは彼を赦していたと言う。
「もっと早く、お前の話を聞いておけば良かったな」
「夫婦の会話は大事っていうものね」
夫婦、か。
自分が始めた偽りの関係をサミュエルは今になって可笑しく思う。
彼女の思いを知っていれば、この傷を刻むこともなかっただろう。あるいは、良きパートナーとして共白髪まで寄り添えたのかもしれない。
「……でも、もう遅い」
「ええ、残念ながら」
ならば、やはりこうするしかないのだ。
剣を振り上げ、サミュエルはとどめを刺そうとした。
と、その時。
背後に感じた気配に振り返り、剣を突き出す。貫く手応えとともに、男の重みがのしかかる。
ケイレブだ。
「師匠!」
「夫婦水いらずのとこ済まない」
「師匠!」
呼びかける弟子の声に弱々しく手を挙げ、ケイレブは王の肩を掴んだ。
それを振り切って剣を抜こうとするが、瀕死の男にこれだけの力が残っているのが信じられないくらい、強く抱え込まれてサミュエルは焦りの声を漏らす。
視線の端で、落ちた剣を掴むミラが見えた。見覚えのあるそれは、少年の日に男が腰に下げていたもの。騎士団長、ケイレブ・カークの愛剣だ。
その重さをサミュエルはよく知っている。男に憧れ、強くなるために共に剣を振るった日々。幾度となく手合わせを繰り返し、男の技術を模倣し、サミュエルは腕を上げて行った。
その剣で、我は死ぬのか。
「嫌だ」
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――呻きながら、喘ぎながら、サミュエルはもがく。
殺される覚悟はできていた。
だが、土壇場で死にたくないと思った。
殺して欲しくないと思った。
だが。
「お前も簒奪者になるのだな、ミラ」
サミュエルの言葉に戦乙女は頷き、そして、一気に剣を振り抜いた。
背中から地面に崩れ落ちる。
腹を濡らす、あたたかな液体。
それが己の血液だと気づく頃には、サミュエルの五感は喪われつつあった。
暗闇の中、ミラの泣き声だけが聴こえてくる。小さな子供のように、悲しみのままに泣いている。
ああ、我もあんな風に泣ければ良かったものを。
だがもはや、涙の一滴すらも流す力はなく。
簒奪の王はただひとり、黄泉路へと旅立った。
『簒奪の王は戦乙女の夢を見るか』完