ムラアシュDom/Subユニバース。
ふわっとした設定です。
抑制剤は数日前になくなっていた。
勇者がSubであるという事実はトップシークレットであり、国王からは何があってもバレてはならないと言われている。勇者はDomであるという噂を流して真偽をごまかしていたほどだ。
その勇者にCommandを出してみる勇気のある人間に出会ったことはなく、抑制剤さえあれば普段の生活に問題はなかった。
自身の性を認識してから十年以上、一度もCommandを受けたことがなかったアッシュは、ダイナミクス自体が自分には関係ないとすら思っていた。仲間たちが守っていてくれていたのに甘えていたのだ。
アッシュは震える手を地面につけて腰を落とした。
初めてのCommandがこんなに苦しいとは知らなかった。呼吸がうまくできず、顔をあげることができない。
「”good boy”だな?」
男がアッシュの頭に手を置いた。
何も嬉しくない。DomからCommandを受けるのは幸せなことだから、いつか自分のDomを見つけるようにと、仲間から教えてもらっていたのに。
(くそったれ)
いつもの出張販売の帰りのこと、数日前に壊滅させた盗賊団の仲間が報復にやってきた。前回の教訓を忘れず、弱いふりの演技もせずに初手から返り討ちにしてやった。
が、ちょっとした油断で、荷物を一つ奪われた。それが罠であると気付かずに、アッシュは単身盗賊を追って――前回とおなじ奴らの根倉に待ち構えていた、Domである盗賊の”Kneel”により服従させられたのだった。
なぜバレたのか分からない。アッシュは抑制剤を定期的に摂取する以外にダイナミクスについて一切勉強したことがなかったから。
ただただ苦しいとしか思えず、早くこの時間が終わってほしい、それなのに、次のCommandが欲しいとも思ってしまう。そんな自分へのいら立ちもあり、頭の中は最悪だった。
「おい、兄ちゃん”Look”だ」
待ち望んだ次のCommandは、やっぱり苦しいものだった。めまいを感じながら男を見上げる。粗野な男たちがにやにやと笑いながらアッシュを見下ろしている。
「良い顔じゃねえか、俺らは本当に運が良いな。感謝してるんだぜ」
「そう。前の頭は気に入らなかった。おかげで俺たちがトップになれる」
Domの隣にいた男が言葉を続ける。
「ただまあ示しがつかねえからな、アンタたちには報復が必要だった。色々調べさせてもらったが、まさかアンタがSubだったと知った時は喜んだぜ」
きっと家探しでもされて、抑制剤の存在を知られたのだろう。アッシュは歯噛みした。
「あとの二人もすぐ捕まえて、」
「店長に手を出すなよ」
アッシュが低い声を出した。
Domの男は怯んだように肩を震わせ、それから舌打ちをした。SubがDomに命令するのはありえない。男の矜持が傷ついたようだった。
男がアッシュの頬を張る。大きな音が鳴ったが、アッシュは微動だにしなかったし視線を男から一切離さない。
「お前ら、外に出てろ。ちょっと教育が必要みたいだな」
Domの男が袖をまくる。
声を出せたことでアッシュは理解した。Commandには逆らえないが、自分の意志で動くことは可能なのだ。どこか一部を動かせば、こんな雑魚は一瞬で片づけられる。
「”Stand up”」
Comanndの通りに立ち上がる。よし、一歩でも近づけば射程内だ。アッシュは息を吸った。
「”Come”、”Down”、”Crawl”、”Roll”、”Lick”」
アッシュが動こうとした瞬間、一度にたくさんのCommandが浴びせられた。
脳がCommandを処理できない。
アッシュは体を硬直させて、ただ男を見つめた。
「悪い子だな、ほら、”Stay”、”Kiss”、Strip”、”Kneel”、”Look”」
茫然と立ち尽くしていると、次々とCommandが続いていく。言葉の雨は止まらない。
体に力が入らず、アッシュは地面に膝をついた。あまりの苦しさに胸元を強く握る。視界がちかちかと明滅する。
Commandを実行しなくては。でも体が動かない。息ができない。アッシュはうずくまった。
「Subの癖に俺様に逆らうから悪ィんだよ!」
男がアッシュを蹴り飛ばす。
「罰として、十分かわいがってやるよ。”Strip”」
アッシュは動けない。Commandの嵐は止んだ。なのにまだ頭が回らない。今まで受けたどのCommandを実行すればいいのか分からない。
「”Strip”だ」
男が耳元でささやく。
アッシュはうずくまったまま、上着に手をかけた。
突然外が騒がしくなった。男がそちらに顔を向けたが、アッシュはうつろな目で上着を脱いでいく。
「アッシュさん!」
上着を持つ手が止まる。
この声は、ムラビトだ。
うつむいたままのアッシュの目から涙がこぼれた。ムラビトに見られた。自分がSubであることがばれた。しかもこんな、ひどいPlayをしている時に。
Commandはまだ終わっていない。アッシュは上着を棄てて、インナーを脱ぐために体を起こす。
男がアッシュに近付き、後ろから首元にナイフを当てた。アッシュの手が止まる。
「おいお前、動くなよ、こいつを殺すぞ」
ムラビトに向けて男が叫ぶ。このまま男を殴り飛ばせばいいのに、動く気にならない。されるままに、男に体を預ける。
ムラビトのことを見ることができない。勇者のくせにSubであるアッシュに呆れているだろうか。こんな男に服従している情けない姿を見て幻滅しただろうか。
「……ぐ……う……?」
男が呻いた。
アッシュは男を見る。ナイフを持つ手が震え、顔からは冷や汗が流れ続けていた。
ムラビトはそこから一歩も動いていないし、何もしていない。それなのに、魔力とは違う何かがこの場所を制圧している。
「おま、え、Domか」
男が声を絞り出した。呼吸ができないのか、言葉と共によだれがぼとぼとと落ちる。
「Dom? 僕はムラビトです。アッシュさんを離してください」
聞いたことがない冷たい声だった。
男が怯み、アッシュもまたその声に震え、ムラビトを見た。
魔族の象徴である角を隠すようにフードを深くかぶっていた。表情の抜け落ちた顔。男を見下すような恐ろしい無表情。いつもの優しいムラビトではない、知らない男が立っていた。
「が……あッ」
男が首を掻きむしろうと手を動かした。ナイフがアッシュの首をかすり、小さな痛みに顔をしかめた。
「やめろ!」
ムラビトが叫んだ。と、同時に男は口から泡を吐きながら、白目をむく。
そのまま後ろに倒れていく男から離れるようにして、アッシュは前に手をついた。
「アッシュさん!」
ムラビトが駆け寄りアッシュの肩を抱く。
言葉が出てこない。ムラビトが怖い。こんな感情は生まれて初めてだった。魔王と戦った時ですら感じたことがなかった。
どうすればいい。Commandが欲しい。教えてくれ、誰か。
「ムラビト」
マオの声だった。先のムラビトと違い、優しい声だ。
「Commandを与えてやれ」
「え……?」
「自覚がなかったのだろう。今のは貴様があのDomを制圧したんだ。勇者もSub dropしかけている。助けてやれ」
幼少期から一人で過ごしていたムラビトにダイナミクスを教える者はいなかった。初めて聞く難しい言葉をつらつらと並べられ、理解ができずに逡巡する。
腕の中にいるアッシュは下をむいたまま苦しそうにしていた。助けられるのが自分であるならば、これほど嬉しいことはない。
「どうすれば」
「本能に聞け。Commandが自然と出てくるはずだ」
マオはそれだけ言うと、気絶したDomの男を引きずってこの場所から離れていった。気を使って二人きりにしてくれた。けれど、ムラビトはどうすればいいかわからない。
「アッシュさん、辛いですか」
できるだけ優しい声で伝えてやると、アッシュはこくりと頷いた。
Commandとは何だろう。それは言葉であるのか、それとも行為であるのか、どちらなのだろう。
きっと、どちらもだ。ムラビトは唇をなめた。
本能に聞け。マオの言葉を思い浮かべる。
「アッシュさん……”Look”」
本当に口から言葉がこぼれた。うつむいていたアッシュが、顔をあげてムラビトを見る。涙を浮かべ、頬を紅潮させている。
目が合った瞬間に、ムラビトの心臓が脈打った。
「よくできました」
そっと頬に手を添える。アッシュの目から涙がこぼれて、ムラビトの手に伝わり落ちた。
「”Come”、抱きしめて」
手を広げると、アッシュがムラビトを抱きしめる。恐る恐る力をこめてくる。レベル1を抱きつぶさないように、壊れないように、優しく、強く。
こんなに幸せなことがあるのか。ムラビトは驚いた。アッシュを助けるための行為なのに、自分が喜んでいて良いのだろうか。
「アッシュさん、大丈夫ですか?」
「すげえ気持ちいい……」
耳元で呟かれた言葉に、ムラビトの全身が震える。もっとPlayがしたい。もっとアッシュを気持ちよくしてあげたい。
「ど、どうしてほしいですか」
「もっと言って欲しい」
「じゃ、じゃあ、”Present”」
言ってから、しまったと思った。アッシュが言葉を欲しがっているのに、こちらがアッシュの行為を欲しがってどうするのだ。
けれど、アッシュは抱きしめていた体を離すと、嬉しそうな表情でムラビトを見つめた。インナーを脱ごうと両手をクロスさせる。
「あっ待っ、”Stop”、アッシュさん”Stop”」
ムラビトが慌てて言葉を訂正すると、アッシュは困ったような顔になった。
「ごめんなさい、ありがとうございます。僕すごくうれしくて、つい、ひどいCommandを」
「ひどくねえよ。俺今日Commandを初めてもらったんだけどよ、あの男のやつはひどくしんどくて、二度とごめんだって思ったけど、ムラビトのCommandは全然ちがった。こんなに気持ちいいことってあるのかって驚いた」
「僕も、同じです。初めて言ったけど、自分だけ気持ち良すぎて、アッシュさんのこと苦しめてないかなって……思って、しまって」
アッシュの目を見ていたら、言葉が消えていく。もっとしたい。この先を見たい。
「”Open”」
ムラビトは無意識にCommandを出していた。両手をアッシュの頬に添えて、じっと見つめる。
アッシュの口が小さく開かれる。
「“Kiss”」
アッシュの唇がムラビトに優しくかみつく。それから小さなリップ音を鳴らして離れた。
「”good”」
ムラビトがほほ笑むと、アッシュも笑顔を浮かべる。
「店長、たすかった」
「こちらこそ、ありがとうございます」
二人は額を合わせてくすくすと笑う。
ムラビトは自分がDomであったことに感謝したし、アッシュも同じことを思った。
何も知らない二人の初めてのPlayだった。
「続きできる?」
「もちろん、アッシュさん、”Roll”」
ムラビトが告げると、アッシュは地面に寝転がった。
本能はいくらでもCommandを教えてくれる。
幸せにしてあげたい、幸せになりたい。もっと知りたい。
「全部のCommand試してみましょうね」
ムラビトはアッシュの上にまたがった。夜はまだ始まったばかり。