!悲伝ネタバレありの考察(妄想)と感想
悲伝観劇後に是非聴いてほしいんですが、活撃の三日月と山姥切のデュエットソング「現」。あれ?これ悲伝の曲でしたっけ?ニトロの恐ろしさを思い出しましたね。考察が進みますね。
6/23昼公演、そしてライブビューイング見ました。
しんどい…圧倒的しんどさ…まんばちゃんが勝っても三日月は円環から抜けられないのか……。三日月にとっては、再演はもちろん虚伝から如伝にかけてのひとつひとつの公演も繰り返しの一部だったのかもしれない……。けれどその公演を通して強くなり千秋楽では三日月に勝ったまんばちゃん。それが嬉しくてか、最後の顕現時に笑っていた三日月はほんの少しの希望に思います……。どうにか円環から抜け出してほしいです……。
さて、一緒に観劇した友人と感想・考察を話している中で、
「活撃円盤特典の三日月と山姥切のデュエットソングが意味深だ」と教えてもらいました。(わたしは長谷部沼住民なので、活撃に関してはどちらかというとノーマークなんですね。コンテンツが広がり情報過多で、限られた時間の中ですべてを追いきれません……)
早速聴かせてもらいましたが、……
ご存じない方は是非聴いて……もしくは歌詞を検索してください……
この恐怖を共感してください……
聴きましたか?
……あれ?これ悲伝の歌です?え?なにこの歌詞……
こわい……
円環を廻る三日月宗近の歌だ……。
えっこわい……
ほんとこわい……
偶然だったらそれはそれでこわい……
悲伝パンフレットの中、末満さんの御挨拶に「『刀剣乱舞』という世界に、どこまで踏み込んでよいのか。どこまで踏み込んだらだめなのか」「『刀剣乱舞』とはなんなのか?三日月宗近とはなんなのか?その深く、静かな、想い、のようなものの、一端、が、この物語に触れてくださる皆様に届きますように」という文がありました。
それから、三日月のページ、ひろきくんの「今作の注目ポイントは顕現台詞の意味」という言葉はきっと鍵ですよね。
これは……最早刀ステだけではなく、刀剣乱舞という作品全体のことを考えなければならないように思えます。(そうやって考えるのも面白いよって話です)
以下、友達との考察&わたしの妄想です。
三日月の顕現台詞といえば、
「三日月宗近。打ち除けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ」
どこも変じゃないように思いますよね。もう聞きなれてしまった台詞ですから違和感はなくなってしまいましたが、そもそも三日月宗近は打ち除けが三日月の形をしているため三日月と呼ばれているのであって、打ち除けがたくさんあるから三日月ではないのですね。
しかし三日月は「打ち除けが多い故」と数を強調しているわけです。
(2020/5/20追記です。三日月宗近の由来は、確か観智院本銘尽の写本によって「三日月状の打ち除けが多いから」と「表のなかばに特徴的な打ち除けがあるから」の2説あるって京のかたなのニコ生で聞いた気がする。原典まで確かめてなくて申し訳ないのですが……。どちらにせよ三日月は打ち除けが多いことを顕現台詞で言っています。)
打ち除けとは、刃縁の棟側に接するように現れる弧状の短い二重風の働きのこと。二重、つまり刃縁(縁は、えん、えにしとも読めます)に重なった状態の部分がたくさんある。刃縁に沿って打ち除けが続く、幾つも縁と重なりがある、といったことが→円環をループする、へ繋がるのではないでしょうか。
もしくは、月はそのものが死と再生の象徴です。三日月の形の打ち除けが多いということは何度も三日月となる、満ち欠けを繰り返す、という意味ともとらえらえます。
(無い知恵を絞った結果で、まあちょっと強引な気もしますけれど)
つまり、そもそも三日月宗近には、ステ、ミュ、ゲーム、アニメ、すべての刀剣乱舞コンテンツ通して「ループする」という性質があるのかもしれません。
ここでミュージカルのことを考えてみます。
わたしはミュに関してもノーマークで……
観たことがあるのは、
・三千年の子守唄
・つはものどもがゆめのあと
・結びの響、始まりの音
の3つ、どれも一度しか観ていませんので浅い考察となってしまいますが……。
(ミュージカル未観劇の方はネタバレありますのでご注意ください)
つはものどもではミュージカルの三日月も、三日月だけが何度も歴史を見てきており、誰にも言うことなく歴史を正すため一人で動いていた。その三日月の行動に疑念を持った小狐丸と刃を交え……という三日月のループを示唆する部分があったんですね確か。(ライブビューイングの一度しか見ていないのでうろ覚え)
そこで髭切が、「三日月はどの刀よりも昔からあって、伝来がはっきりしている刀で、だから一人で歴史を見守っているんだね。」というような意味合いことを言っていたそうです。(言ってたって友達が言ってた笑 そういえばそんなこと言ってたかも笑)
確かにつはもののメンバーでは、古い三条の刀であっても、今剣、岩融は後の後の創作から生まれた刀ですし、小狐丸は同名の刀は残っていますが能の「小鍛冶」を主とした刀。髭切、膝丸は刀身が残っているとはいえ多くの伝承が混ざったものです。
刀ステでも、小烏丸は刀の父ですが複数の刀が入り混じっていますし、おそらく今のところ一番古く来歴がはっきりしていてきちんと刀身が伝わって現代に在るのは三日月宗近なんですね。逆に言えば逸話がほぼありません。不殺の刀であり、他の古刀のようにあやかしを切った等のあやしい伝承もありませんし、義輝が永禄の変で他の名刀とともに畳に突き刺し、折れるたびに持ちかえかわるがわる使ったという創作くらいしかないのではないでしょうか。
「美しい」と悲伝の中で度々称された三日月。
三日月自身、刀帳台詞で言っています。「まあ、天下五剣の一つにして、一番美しいともいうな。」
公式特設サイトの紹介も、「平安時代の刀工、三条宗近作の太刀。天下五剣の一つで、その中でも最も美しいと評される。」です。
義輝が血に濡らすには惜しいと振るうのをやめたほど。美しいからこそ誰にも振るわれることなく大切に伝えられ、ただ昔から歴史を静かに見守っていた刀。それこそが三日月の物語なのでしょう。
だからこそ、三日月が見てきたものが歴史の指標となっていて、彼はその歴史を守る役目を負っている。
ステの千秋楽では、三日月と山姥切が対峙する最後の場面で、三日月は刀身をなぞりながら、「おぬしならこの物語を超えて変えてくれるかもしれん」というようなことを山姥切に言っていました。その物語とは、ステ本丸の三日月だけでなく、三日月宗近という刀そのものの物語のことを言っているように感じました。
三日月宗近はゲームの顔となっており、さまざまなコンテンツに登場していますが、そこにはもしかしたら意味があるのかもしれません。
ではそもそも三日月宗近という刀そのものにループする性質があるのならば、結の目となるのは明らかだとわかるはずです。ならば、なぜ時の政府は三日月を顕現して戦いに加えるのでしょうか。(政府黒幕説ありますよねこわい……。)
これまで歴史が変わることはなかった。刀剣男士と歴史修正主義者・遡行軍の戦いも含めその上でこの歴史が成り立っているのではないか。この戦いは徒労ではないか?と、三日月は鵺に言っていました。
ならば彼らはなぜ戦っているのでしょうか。
刀剣男士は何と戦っているのでしょうか。
「歴史を変えようとするものだ」と義伝で三日月は応えました。
歴史遡行軍や歴史修正主義者とは何なのでしょうか。
ここでゲームの台詞に戻りますが、青江攻撃時の「どこかで見た動きだね」という台詞、気になっていましたよね。
悲伝でとうとう、鵺が三日月と同じ台詞を言い、同じ動きをする場面が登場しました。鵺は冒頭の永禄の変にて義輝殺害に使われた刀たちの集合体ですが、そこに本来の歴史では使われることのなかった三日月が混ざっていた。そして鵺の中に存在していた三日月が戦いの最中表に現れたのだろうと解釈しています。(あと、鵺が義輝を抱きしめていましたが、あれ骨喰の癖なのでは?とか考えちゃいます。)
主である義輝を守りたいと戦う鵺を、不動が「あれは昔の俺だ!」「俺たちだ」と言っていたように、刀剣男士として顕現している刀剣も、一歩違えば敵と成り得る存在なのでしょうね。
義輝に名を与えられた鵺――時鳥は、自らのことを、「明鏡止水の刀なり」と称していました。
明鏡止水は澄み切って落ち着いた心の形容です。多くの刀が混在して絡まり合った心が、名を与えられたことで整理された時鳥の状態を表しているのでしょう。けれどそれだけでなくもしかしたら、一点の曇りもない鏡、波立たず静かにたたえた水は、刀剣男士たち自身を映す鏡ともなりえる存在だということを表しているのかもしれません。
戦いの最中鶯丸は相手の命をやけに慮る台詞を言います。攻撃時「命が惜しいなら引け!」「命を大事にしろ!」、会心の一撃「殺すのは好きではないのでな。生き残れよ」。
ミュージカルの陸奥守は時間遡行軍にとどめをさしません。
彼らは遡行軍の正体を知っているのでしょうか。
そして、男士たち皆を打ち負かした三日月に小烏丸が言った台詞「刀剣男士を超えたか」。彼は何になってしまったのでしょう。
本丸の皆を裏切ったわけではない。歴史修正主義者や遡行軍ではない。ならば……?
7-2江戸・白金台の検非違使ポエム「検非違使はどこか、自分たちに似ている。」も恐ろしい。7面検非違使ポエムはだいぶ意味深ですね。
ミュージカルにも重要な部分がある気がします。
結びの響、始まりの音で、歴史遡行軍は名もなき刀剣たちであり、土方さんのもとで戦い物語を得た、といった描写がありました。
悲伝の、刀剣の集合体である名もなき刀であった鵺も、名を与えられ義輝のもとで物語を得ました。
最近実装された巴形薙刀や静形薙刀も集合体です。彼らの回想も不穏ですね。
物語のある刀しか顕現していない中、補充戦力として顕現された確固たる逸話のない刀剣の集合体とは。
「この父まで引っ張り出すとは。これも運命なのか」と小烏丸も言っていますが、戦況は徐々に悪くなっているのでしょうか。
悲伝では小烏丸が顕現したことで「肩の荷が下りた」と三日月が言っていました。おそらく小烏丸は最初は顕現してくることはなかったのでしょう。今回顕現し、三日月と山姥切の戦いの立会人となったのもイレギュラーなことだったのではないでしょうか。とってもメタですけど、三日月が円環でループしているうちに、新しく実装される刀剣が本丸に顕現することによって何か変わっていくこともあるのかもしれないなあと思います。
悲伝では鶴丸国永の本丸台詞が円環を廻る三日月の状態、そしてタイトルへとそれこそ驚くほどうまくつながっていました。
「人生には驚きが必要なのさ。予想し得る出来事だけじゃあ、心が先に死んでいく」
心が死ぬと心じゃなくなる。心に非ず、悲しいと解く。
同じ時を繰り返し、最早驚く出来事もない三日月の心は死んでいる状態。
鶴丸はその来歴(永くあること、その中で多くの人を見てきたこと、主人と共に墓で眠っていたこと等)から驚きを求めるというのがこれまで拝見した一般的な考察でした。この鶴丸の本丸台詞に別段鶴丸の性格以外の意味はなく、末満さんが今回の舞台において思いつき使ったのか、それともゲームの本丸台詞そのものに三日月の心が死んだ状態であると示唆する意味がもともと込められていたのかはわかりません。けれど三日月の顕現台詞しかり、もしかしてゲームの台詞には、刀の来歴や性格などからくる台詞意外に、刀剣乱舞の世界観において意味がある、あらかじめ張られた伏線となるものがあるのかもしれない。そう考えるととてもおもしろいですね。
江雪の台詞に、鍛刀「この悲しみの地に立つ、新たな刀が来ましたね」、本丸放置「戦いが終わる日は、果たして来るのでしょうか?」等、戦いを厭う台詞が多いのは、板部岡江雪斎の影響だけではなく、この徒労と三日月が称した戦いに何か気づいて言っているのかもしれない、などとも考えてしまします。
様々なコンテンツで徐々に物語が進んできました。このあたりでもう一度刀剣男士の台詞を考察し直してもおもしろいかもしれません。
新刀剣男士が増えるだけで、新しい面も出ないし、ゲームのストーリー進まないなぁなんて思っていたのは審神者だけで、ニトロが最初からゲーム、ステ、ミュージカル、アニメなどなどすべてのコンテンツの水面下でじわじわと仕込みを準備していたとしたら……こわい……。
もともと考察するのは苦手なのでそろそろ限界です……。悲伝観劇後の気持ちを吐き出したいという思いで書いた文章、多分に記憶違いや妄想、考えすぎではということも含まれることと思います。それでもここまでお読みいただいた方がいらっしゃったらありがとうございました。あとの考察はよろしくお願いします。
以下感想となります。
悲伝では、「三日月宗近とはどのような刀か」と共に、「刀とは何か」という問いかけが多く存在しました。
冒頭本丸の手合わせ後のシーンで小烏丸が「刀とは何ぞや」と、武器、美術品、信仰の対象、等様々な刀の姿をあげました。
焼身のままの燭台切は刀と言えるのか。彼はひるんだ様子ながら「刀だ」と答えました。
「刀とはなんだ」と問うた義輝。「存在することが答えとなるだろう。千年あっても答えはでぬが」と小烏丸は言いました。
「刀とは何か」これは刀剣乱舞という作品通してのテーマの一つかもしれないと思っています。
わたしも刀剣の展示をいくつも見に行きましたが、刀剣は――もちろん刀剣以外の古くから伝わる多くの物は――それぞれに大切にされ、想いのたくさん込められた物です。時を超えて在るというだけで、どれだけ人に大切に想われ扱われてきたのかがわかります。(わたしはこのことを特に長谷部くんに伝えたい。)
歴史においてその役割はもちろん変わりますが、その在り方すら通して、時代のこと、人のことを教えてくれる。わたしたちは残る物や伝聞でしか過去を知ることができませんし、未来へ伝えることができませんが、刀剣は物語を背負って存在するということで、歴史とその時々を生きた人の心までを、時を超え伝えてくれるものなのでしょう。
「心とは森羅万象を廻る。だから人は物を作り、物を語り、物に心を込めるのだ。我々刀剣は人の心を運ぶ歴史のよすがなのやもしれん。」
虚伝で三日月と山姥切が月を見ながら話していた内容はとても観念的でそのときのわたしには全く理解できませんでした。けれどもそれが、なんとなく、なんとなくですがぼんやりと見えてきた気がします。
しんどいですけど、これからの物語も楽しみですね。