ギル様の「よもやそこまで」が原作と映画版では受ける印象がまったく違う。だが、言わせてもらおう。うんうん。これもまた英雄王だよね、と。ギル様とはつまり裁定者。共通の基準を持たない人類の変わりに絶対の基準としてモノの良し悪し
を評価付けするモノ。もちろんギル様にも好ましいものと好ましくないモノはある。金髪碧眼の少女騎士はドストライクだが、巨乳とかは割と趣味の範囲外。でも裁定者であるため、趣味でないものもそれが極まったモノならばきちんと評価する。「CCC」にてパッションリップの胸に対しての評価などが一例であろう。今回の「よもやそこまで」もまたそうなのだとマダオは考える。ギル様から見たら桜の「生き汚さ」(士郎との想い出が生への欲求に繋がっている)は非常に癇に障るもの。だが、その欲求を糧に「この世全ての悪」なる神にも等しいモノを孕み、産み落とそうとする在り方(ただ生きたいが為に生きる人間種の悪性そのもの)は英雄王ですら「よもやここまで」と魅入らざるを得ないと。今を変革し得るのは今を生きるモノのみ。受肉しようと所詮は死者であるモノでは「生きたい」という生者の渇望に勝てる道理は無かったのであった