#犬王 むちゃくちゃ面白かった、と呟いていたら「歴史とかの素養なくても面白い?」って聞かれたので、ちょっと思ったこと。わたしも歴史とか全然知らんけど、見る前にうっすら知っておいたほうが良さそうな前提があるかも、とは思って。
意外と結構大事な前提は、そもそも「平家物語」が口承文芸ってところなのかもしれん、と思ったの。
一人の作者が創作した文学作品ではなくて、名もなき琵琶法師たちが語りながら仕上がっていったテキスト、っていう特殊性(なので、語る人の流派によって、採用されてるエピソードとかに微妙なちがいがあったり)。
この大前提が抜けてると、なんとなく、映画に出てくる「物語を拾う」っていう意味がちょっとピンとこない気がするんだよなあ。
そんで、平家物語自体、滅亡した平氏の魂を鎮めるために語られた、っていう性質があるってこともかなり重要なんじゃないかなと。怪談の「耳なし芳一」で、平家の亡霊が芳一に語りをせがむのも、まさにそれ。
鎮魂、っていうのがキーワード。
あと、平家の滅亡はドラマティックだっただけにたくさんの伝説を生んでて、映画にもそれがちらほら出てくる。
生きのびた平氏の末裔たちが、山奥にひそんで暮らしている、っていう隠れ里伝説とか。
屋島や壇ノ浦のあたりの蟹には、海に沈んだ平氏の霊がとりついているので、甲羅には苦しそうな人面が浮かんでいる、っていう平家蟹の伝説とか。
史実の知識はなくていいと思うけど、とりあえず、壇ノ浦で平氏が滅んだとき、三種の神器(鏡、玉、剣)っていう、天皇を象徴する大事な宝物のうちのひとつ「草薙剣」も海に沈んでしまい、みんな血眼になって探したけどずっと行方不明、ってことだけは。これは知らなかったら最初から置いてけぼりになるかも。
友魚の一族は、海中の平家の遺物を拾って売っている。室町時代だから、平氏が滅んでから百年経過してる時代設定。
だいたいこれくらいがなんとなく入ってたら良さそうな気がした。
で、あとは、ただのやり場のないネタバレ感想。
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わたしは初日レイトショーに駆け込むくらいの鼻息で映画を見に行って、原作も読んだ。
で、三日後にもう1回映画館行って見た。
作品としてド傑作であることはもうゆるがない。
雑食だからわりと映画見るほうだけど、もう数年に一度の衝撃だった。
監督、脚本、音楽、ものすごい布陣だしまあ最初から期待はしてたんだけど、それを大きく上回っていて。
初見はもう、圧倒されっぱなしだった。
ストーリーもどこにも隙がない。松本大洋のキャラクター原案ってことで、ザラっとした絵の線が良すぎる。色も良い。
場面ごとに全部感想書いてたらキリないけど、もうね、室町の都の匂いがしてくるんだわ。あぶり餅のあたりから。
事前情報を極力入れないようにして行ったので、いきなりロックが始まったときには、うわわわそう来るのか、ってニヤニヤしてしまったよ。かっけえ。でも、あの風景にちゃんと収まってるのよ。違和感なく。
そのあたりは監督がかなり気を配ってたそうで。当時でも頑張ればギリあり得そうなラインを攻めてる。だから興醒めしないでいられるの。
ライブのシーンの演出も最高です。フェスですやん。
いや、「腕塚」のところねー。あれ、たしかに全部は聞き取れなかったです。脳内で音声を即座に漢字に変換できない。最近寄る年波で聴力もおぼつかん。
めちゃくちゃ字幕欲しいと思った。でもあったら野暮かもしれないんだよなあ。その匙加減むずかしいところなんだろうなあ。
ただ、あそこはもう、演目の内容にとくに大きな意味はないのよね。平家滅亡に関するひとつのエピソードをふくらませてるだけのもの。忠度について知ってたら、あれか、ってなるかもしれないけど、どっちかちゅとマイナーなエピソードだし、よほど好きな人でないと知らんやろ。
でも、あの場面で大事なのは、犬王の異才、プロデュース力、人々の熱狂、ムーブメントが発生する瞬間、みたいなところなわけで。
だから柿の木がどないしてん?ってなっても、スルーして大丈夫。あとでパンフで補完して、へえそんな話だったのね、でOKなところかと。
とにかくわたしが何にやられたかって、もうあの犬王と友魚の出会いの場面っすよ。
橋の上なんだよねえ。原作では野原だったけど、夜の都の橋の上に持ってきてる。
弁慶と義経の出会い、っていうのがあるから、ジャパニーズそこがどんだけ特別な場所か知ってる。反射でわくわくする。
橋っていうのは異界との境界っていう意味を見出せたりするわけですし。
醜の呪いをかけられている犬王。盲目ゆえに、外見の醜さに阻まれることなく、犬王の魂を直に見る友魚。
友魚がとらえる犬王の輪郭が、炎のようにうごめく赤い塊として表現されてるのも面白いんだ。
それまでの場面でも、盲目の友魚が、音や、ぼんやりした影によって世界を把握してることが描写されてる。
なので、あの、“何やら得体の知れないもの”としての犬王の登場がすごく説得力があるんだよな。
犬王が琵琶にあわせて踊り、いいなそれ、当然、みたいな短い言葉のやりとりで、すぐに友情が芽生える。ジョンとポール?とにかくお互いを理解しあえる運命の相手に出会った瞬間。
あの星空があまりにも美しすぎてね…。見てるこっちの魂も、銀河に持って行かれました。
あ、そうそう、山口弁もなにげにむちゃくちゃ良いんだよなー。
原作で方言とかは出てこないけど、
セリフが音声になったとき、あの訛りがものすごく生き生きして、父親や少年友魚の、人間としての存在感が濃くなる。
「だんのうらのともなじゃけえ」って響きが、アクセントとともに耳に残る。
原作は映画見たあとで読んだので、ちがいに驚いた。このちょっと抽象的な話を、あれだけわかりやすいストーリーにした手腕はすごいとしか言いようがない。あちこち工夫されてて、セリフに落とし込まれてたりして。隅々まで理解してないとああはならない。さすが野木さん。原作とは変わってるけど本質の部分はきっちり守ってる。
それにしても映画見た人の感想をちらほら見てたらさ、面をとったときの犬王の素顔について、「え、そんなかんじ?」ってなったってのがあって。
わかる。そんなかんじ?ってわたしも一瞬なった。でも多分、その印象こそ、めちゃくちゃ肝なんじゃないかって気がするのよな。
原作では「それまで掛けていた仮面の、幾倍も、幾倍も美しかった」ってなってる。
だから、すんなりと、キラキラの中性的な美青年を描くこともできたはず。
でもあの素顔は、なんというか、ふつうのロックスターだった。
ロックスターとしては、正しい、まっとうな姿。
だけど、呪いをすべて解いたことによって、ある意味では神の申し子だった存在が、ただの凡庸な人間になってしまった感じがしたの。
それは寿ぐべきことだったのかもしれないけど、同時に、大きな喪失でもあったんじゃないかなあと。
その表現があの素顔だったんじゃないかなあ、と。
じっさい、そのあとの展開を見ればわかる。犬王は、権力者に頭を下げることもできる。大人になった、ともいえる。だから生きのびた。
でも、友魚のほうは、捨てることができなかった。だから殺された。ここ、原作読んだらまたちょっと友魚側の動機が語られてるんだけど、映画では「名前」っていうシンプルなキーワードと、表現者としてのプライドみたいなところに集約されてる(うまい)。
琵琶法師が死んだあと、犬王が桜の中で舞う場面は無音。ひたすら美しいけれど無音。映画館、こわいくらいの静寂。
そして、ラストシーン。「さがした、600年も」。
ウグッ…てなりましたよ…なるだろそりゃ…
あのラストは原作とは全く違う。ちがうけど、同じなんだよね。
友魚の魂が救われるためには、彼自身の物語が語られなくてはならない。そのために犬王は、無念の死を遂げて迷っているはずの友人の魂を探していた。
ほどきあう、と原作ではなっているの。
「呪縛の様を、この犬王が解いてやらないと。ねえ、俺がね、いいや、俺たち二人でね、解き合うよ」
これが答えじゃん…?
橋の上に戻り、出会ったときの喜びの中でセッションして、昇華する。
映画では、犬王が友魚をすぐに見つけられなかったのは名前を変えていたせい、としている。
原作では犬王が死ぬ時に友魚に会いに行くけど、映画では現代に至るまでの長い時間の経過を描いた。
遠い過去ではなく、わたしたちの物語にするために。
そして冒頭とつながる。あああ、そういうことだったのね、とわたしの情緒はもうここで振り切れましたよ…
あらゆる魂は、肉体が失われたあとでも、だれかに語られることで救われ、永遠にもなり得る。この映画のテーマそのものが、平家物語とまったく同じなんだよな。
命はあっけなく失われる。そうでなかったとしても、たかだか100年。諸行無常。
だけどその儚さにあらがうすべは、記憶して、語りつぐことしかない。
それがわかったとき、『犬王』の物語の意味がはっきりする。
俺たちはここにいる、と叫んで、生きて、死んだ人たちの物語なんだ、と。
でっかいくーじーらー、公開期間中、あと何回行けるかな…