【どうか幸せに】
「そうか…。そなたの欲が勝った……か」
柔らかな白い闇が満ちる中、澄んだ声が語りかけてくる。先程まで死闘を繰り広げ、その果てに打ち倒されたにもかかわらず、驚くほど穏やかな声。
「だが、どうする? 暗く深い欲望の谷底で、そなたは人々に何を授けられるのだ?」
「…私は、彼らに何かを授けようとは思っていません。そんな器でもない。…ただ」
私にはもう、そんな時間は残されていない。こうしている今も少しずつ体から力が抜け、感覚が遠くなっていっている。それでも
「苦しむ誰かを、悲しむ誰かを、助けたい。そうしていつか平穏な世界に…誰もが明日への希望を胸に生きていける世界になってほしい。それが私の願いで、今もそう思っています」
そんな世界が訪れるのなら、命は惜しくない。これまでもずっとそうだった。
「その“誰か”の中に、欲深き者たちは含まれていないのだろう? やはりそなたは――」
「いいえ。苦しむ心に、安らぎを願う魂に、貴賤も正邪もない。私が助けたいのは“みんな”です。だからサザントスさん、あなたを消させたりなんかさせない」
彼が息を呑む声が聞こえた。そして僅かに諦観を滲ませて、体が保たないから無理だと告げてきた。この闇が晴れれば散るのだと。
「……嫌、です」
悲鳴のような感情が湧き上がる。
それと同時にどこか覚えのある光景が過る。
―心が悲しみに染まっていく。どう足掻いても自分ではどうにもできない絶望。
死なないで、生きていて。お願いだから…置いていかないで。代われるものなら私が…
『――…、泣かないで』
『オレはずっと、そばにいるから…』
『どうかしあわせに……じゆうに…いき、て……』
「ッ嫌……!」
誰より大切だった。
あなたのいない世界なんて考えもしなかった。
置いていかないで、私を一人にしないで。
何でもする、私に差し出せるものなら何でもあげるから、どうか――
「あなたまで喪いたくない、生きててほしい。これ以上誰かがいなくなったりしたら…あなたがいなくなったら……」
もうこれ以上大切な人を喪いたくない。
“彼”だけでなくあなたまで喪ってしまったら…私は……
「…壊れてしまう……」
予想ではなく確信がある。彼を喪えば心が割れ、深い悲しみに沈んでしまう。そしてもう二度と光を浴びることは叶わない。
残り僅かな命でも絶望に沈んでしまえば、指輪もきっと共に堕ちてしまう。もしそれが悪しき人の手に渡ってしまったら、せっかく希望が灯り始めた大陸がまた闇に覆われてしまうかも知れない。
……いや、指輪…。そうだ、もしかしたら一つだけ手があるかも知れない。
「まったく…まるでそなたの方が子供のようではないか」
俯いていた頭に、彼の手が乗せられる。そのままゆっくり撫でられ、顔を上げれば目の前に彼がいた。
ああ…でももう視界がぼやけてしまって、こんなに近くにいるのに、彼が今どんな顔をしているのか判らない。
「この先もそなたは生きてゆく。その中で幾つもの別れを経るだろう。その全てに心を砕いていては、体より先に心が折れてしまうぞ」
穏やかで優しい――慈しみの声。心配してくれている、大丈夫だと慰めてくれている。
――優しいこの人を、大陸を救おうとしたこの人を、死なせたくない。
死なせない。
「…ミトス?」
「ごめんなさい、サザントスさん」
彼の手を惜しく想いながら、一歩距離をとる。
「私はもう、永くありません。今あなたを喪えば、その悲しみを抱いたまま、私もまた消えるでしょう」
「な……、まさか…」
彼が驚いたのは一瞬で、すぐに理由に辿り着いた。きっとその答えは正しい。
「この戦いで私は、自分の命を火種にしていました。ほとんど燃やし尽くしてしまって…本当にもう、あと僅かな時間しか残されていない。それこそ、この闇が晴れる時ぐらいまで」
息を呑む彼の声を聞きながらさらにもう一歩距離をとる。白銀を持つ彼の姿は眩い闇と同化してしまい、その明るさしか捉えられない目ではどこにいるのかももう判らない。
力が入らず震えそうになる足で、どうにか後ずさっていく。間違っても止められないように。
「ここで二人消えてしまうくらいなら、私はあなたを生かす選択をします」
「無理だと言った筈だ、この体は―」
「裏を返せば、体が戻れば生きていけるということでしょう?」
「ッ…ならばそなたが己の命を取り戻せば良い」
消えたくないと願った彼が、己の生が戻るかも知れない局面で、自身よりも私を優先しようとしている。
やっぱりこの人は、心根が優しいのだ。
自より他を。私がこの世界でしてきたことと何も違わない。
だから、この命を使うことに躊躇いはない。
「この力は“私”には使えないんです。この場に残るオルサの力も、神々の指輪も、きっとあなたには作用する」
「何を言って…」
「サザントスさん。今のあなたならきっと、大陸の景色が違って見える筈です。だからもう一度、大陸を…彼らの“生”を、見つめてください」
救う対象としてではなく、同じ大陸に生きる「一人の人間」として――
「ミトス、そなた何をしようとしている…!」
前方で気配が揺らめく。距離をとったと思っていたけど、思ったより離れられていないのだろう。急がなければ。
ここまで共に旅をしてくれた指輪への感謝を胸に、最後の祈りを捧げる。
「……“命宿りし聖なる指輪よ”」
指輪が温かく灯る。聞き届けてくださるのだと解り、心から安堵する。
「“その光を…我が全てを”」
「止めろ…」
「“かの者に”」
「止めろ、ミトス!!」
「“与えよ”――」
肩を強く掴まれ、組んでいた指がほどけてしまった。
でももう祈りは捧げたから大丈夫。
彼の頬がある辺りに手を添えて、願う。
「……生きてください、サザントスさん」
その瞬間、指輪から青い炎が溢れ光へと転じ、全てを覆い尽くしていった。
私は…ちゃんと笑えていただろうか。
―――……
温かな青い光の中、彼の記憶に手を伸ばす。
彼を縛るものの一つである“約束”…。これが無ければ、いくらか楽になる筈だ。
何よりもう、約束を交わした相手がいなくなってしまう。それなら…彼を一人にしてしまうのなら、無い方がいい。
そうして記憶を焼いた影響か、彼はがくりと気を失った。咄嗟に抱きとめて、でも支えきれなくて、尻もちをつきながら倒れてしまう。
痛みも、重いという感覚も、彼の温もりも、もう判らない。彼の規則正しい呼吸が耳元で聞こえるだけだ。
その時、何かの気配がふわりと近付いてきた。聖火神の力が満ちる光の中で、その気配は闇の力を纏ったままだった。
「あなたは…そうか、傍にいたんですね」
倒れた彼を心配しているのか、それとも私に怒っているのか、漂う魂はふわふわと回っている。
「こちらに。時間がかかるかも知れませんが、彼ならきっと気付いてくれます」
魂はなおもその場に留まっていたけれど、やがてランタンの中に収まってくれた。
彼が人々に受け入れられ、再びここを訪れられるようになるまでには時間が要る。
いきなり戻ってきた彼を、人々は警戒するだろう。でも、彼は変わった。このひとときの交流で私が思ったくらいだ、守り手のみんなもきっと気付く筈。
どうか彼を信じてほしい。他愛ない話をたくさんしてほしい。彼が一人で抱え込んでいそうな時は、外に連れ出したり、ちょっと強引な手を使ったりして、その悩みを分け合ってほしい。
みんなが私にしてくれたみたいに、温かな心を、どうか彼にも。
「………。」
青い光が一際強くなり、“私”が薄れていく。もう別れの時なのだ。
悔いはない。大切な人を喪った世界で生きていくくらいなら、この人を助けるために命を使い果たす方がずっといい。
既に感覚の消えた腕で彼を抱きしめる。
これからもきっと、人の醜さを何度も目にすることになる。でもそれだけではない、その近くで、足掻いている人がきっといる。温かく気高い心で、どうにかしようとしている人はいるのだ。今の彼ならそのことに気付けるだろう。
人に、その心に寄り添えば、きっと……欲は決して悪ではないのだと気付いてくれる。
「ここで見ているから―」
どうか呑まれないで
独りで全てを抱えようとしないで
あなたは決して、ひとりではないのだから
「私は――…」
最後の時だからかタガが緩み、勝手に零れ落ちそうになった心の欠片を、寸でのところで噤んだ。
これは私一人で完結させると誓ったのだ、例え今聞かれることがなくても、もう二度と告げることが叶わなくても、口にするわけにはいかない。
だから、祈りへ代えた。
「どうか――…」
その響きが消えるのと同時に、私の姿は、ほどけて散った――