パライソ、豊前江が変わったシーンに気づいたら心覚での言動にも納得した。あわせて鶴丸国永の狙いの一つにも思い至ったという話。
延々と豊前定点をしていて、ようやく気づいたこと。
豊前江はとあるシーンの前後で表情が一変する。
それは日向を天草四郎と見立て民を扇動した結果、ちょっとした言い争いから民が狂気に陥り、同じ民を殺したシーン。
「パライソー!」と叫び同胞を殺す民には、必死で止める豊前の言葉も通じない。
このとき豊前は何を感じたのだろう。
おそらくそれこそが、後の出陣である心覚に続く豊前江の責任感の強さの理由じゃないかと思いました。
このシーンの前まで豊前は笑顔と、戸惑う表情が多かった。松井への心配の気持ちも表情に出ていた。
しかしこの後から一気に表情が険しくなる。
直後の鶴丸の戦の歌(勝手にこう呼んでいます)でも、じっと鶴丸を見た後、決然と逆さひょうたんの旗を掲げた。
これは豊前の決意の表明だと思っています。
さらに言うなら、豊前には人を斬ることを迷うシーンがない。
いきなり出てきていきなり斬った。表情にもとまどいはない。
松井、浦島、日向にはあるのに豊前にはなかった。
つまりこの時点で、豊前は人を斬ることへの迷いを捨てている。
豊前江にとってもっとも罪深いのは、後悔したのは、人を斬った、あるいは死んだことではなく、「深く考えず民を扇動し、結果として狂気の中人が人を殺す手助けをした」ことなのではないかと思いました。
なぜ考えなかったのか、なぜもっと相手を知ろうとしなかったのか、自分は相手を顔なき民だと侮っていたのではないか。知っていれば覚えていることができたのに、知ろうとしなかったから何も覚えていない。何も残せない。
それが心覚で、太田道灌を斬ったときに言った、「知りもしねえで殺したくないんだ」に繋がるのかなと。
だから、豊前にとって心覚の物語はパライソへの鎮魂歌でもある。
松井とのデュエットの歌詞、「聞こえるのは懺悔の叫びか、許しのしらべか」を深読みしてしまう。
だって豊前は心覚で、「ピエ・イエズ(レクイエム)」を背負って殺陣をし、水心子くんと語り合うので。
懺悔の叫びが昇華されて許しのしらべに至ったのかな。そうだったらいいな。
許されたと豊前自身が思えるといいね。
この変化に気づいてから、豊前江の責任感の強さに改めてしんどくなりました。
何もかも背負わないでよ。
この出陣を通して鶴丸国永が仲間たちに伝えたかったのは、「考え続けること」何が正しくて何が間違っているのか。そんなものはない。だから誰かに決めてもらうのではなく、「自分で決めろ」ということなのではないかと思いました。
流されるな、考え続けろ。
鶴丸って厳しい。でもやさしい。
三日月宗近はひとりで背負おうとする、鶴丸国永はそうではない。
パライソの出陣は鶴丸が多くを背負ったけど、背負い続けることが目的ではない。
考えて欲しい。
二度と後悔をしないために。
私は長らくパライソで、鶴丸国永が豊前江に余計な重しを背負わせたと思っていたのですが、間違っていました。
背負うと決めたのは豊前江。
何を背負うのか見定めたのも豊前江。
全部豊前が決めたこと。
それを誰のせいと決めつけるのは違う。それは豊前に対して失礼だ。
それはそれとして、刀剣男士いいいいいいいいいいいいいいいいいいいい! そんなに背負わないでええええええええええええええええ!! 審神者が君等の罪を背負って地獄に落ちるから君たちは笑っていてよ。
追記
鎮魂歌 Pie Jesu(ピエ・イエズ) 歌詞
慈悲深き主イエスよ 彼らに安息を与え給え
彼らに安息を 永遠の安息を与え給え
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