TRPG CoC 『ラボラトリー・アンセーフ』
一年後の話
天森蛍と林泰造
春を過ぎて、夏を越えて、秋を過ごし、また、冬が来た。
かつて『ラボラトリー・アンセーフ』で四日間を過ごした季節が再び巡ってきて、天森蛍はぼんやりとカレンダーを眺める。
一月二十日。蛍はあの施設を訪れた。菜月に出会い、瑛詩に出会い、ロールシャッハに出会い、西岡に出会い、青木に出会い、林に出会った。
一月二十一日。ブルーバック野郎の脱走で、実働部隊の人間が死んだ、その死体を見た。
一月二十二日。フェアリーテイルウィッチの暴走。扉を開けることも無視することも選べないでいるうちに、扉の向こうで西岡が死んだ、その死に行く体温を握り締めていた。
一月二十三日。青木が死んだ。
一月二十三日。マリウスが死んだ。
一月二十三日。ロールシャッハと、さよならをした。
『……蛍、どうした?』
一月二十三日。
今日の日付を眺め、蛍は掛けられた声にはっとする。
カレンダーから視線を外して、蛍はすぐ傍に立てていたスマートフォンに目をやった。消灯していたはずの画面にはライムグリーンの髪を後ろに流してカチューシャで押さえたいつもの様子のロールシャッハが、こちらを心配するような表情で佇んでいる。
蛍はへら、と笑んで見せて、「一月二十三日だな、と思って」と答えた。
『一月二十三日……ああ、そうか。あの日から一年か』
「うん……だから、思い出してた。いろいろ」
躊躇で見殺しにしてしまった西岡に駆け寄って掴んだ手のひらの、温度がどんどんと冷えていく感触だとか。
たった二度だけ強引に抱きしめたマリウスの慌てたような声だとか。
腕の中で冷たく重くなっていった青木を、何度も振り返りながらも置いて行ってしまったあの塩の部屋だとか。
『蛍……』
連れて帰ってこられなかったと泣いた蛍が代わりに差し出したネクタイを見た、あの瞬間の林の顔だとか。
「あはは……やだなあ、まだ泣いちゃうな」
ぽた、と頬を滑り落ちる涙の感触がして蛍は笑った。瞬きで次の雫が後を追う。
目を擦らないよう、人差し指で掬い上げるように頬から下瞼をなぞって、「だいじょうぶ」と言った。
「もしかしたらずーっと悲しくて、ずーっと泣いちゃうのかもしれないけど。……いつか菜月ちゃんが生きるのを諦めちゃったり、瑛詩くんが現状を認められないって居なくなってしまったり……林さんが簡単に自分の命を投げ出して何かを守ってしまうかもしれないけど。……でも、大丈夫だよ。ロールくんが、一生一緒に居てくれるもんね」
『ああ、それは約束できる。俺は蛍と一緒に居るよ』
力強い断定の答えに、蛍は「うん」と笑顔のままで頷いた。この人生の終わりの日を考えて「置いていきたくないなあ」と言いそうになったけれど、今は既にさんざん心配を掛けてしまっているのだからとどうにか口を噤む。
室内はこの部屋を今後の住居として宛がわれた日から、随分と生活感に満ちた様子になった。お気に入りのカーテンやラグにローテーブルと座椅子があって、部屋の一角にはロールシャッハのために作った彼の〈私物〉を置くスペースがある。扉から一番遠い部屋の隅には木製の棚があって、そこにはかつてラボラトリー・アンセーフで撮った動画から起こした何枚もの写真が写真立てに収められた状態で飾られていた。
見るたびやっぱり泣いてしまうけれど、その写真はどれ一つとして蛍にとって〈悪夢〉ではなかったから。
「さて、それじゃあそろそろ出掛けよ。林さんはもう居るかなあ。……行こっか!」
『蛍、上着を忘れてる』
「あっやばいやばい。うっかりしてた。建物の中寒くないから忘れちゃう」
手に取ったスマホの中からの指摘に、蛍は部屋の出口に向けていた足をくるりと回してクローゼットに向けなおした。
黒のダッフルコートを手に取って、白と黒で揃えた服の上から袖を通す。
今度こそスマホを手に持って、蛍は自室を軽やかに飛び出した。
*
ロビーには思った通り、既に林の姿があった。
カメラがポケットの上から頭を出している形でスマホを収め、「はやしさーん」と声を掛ける。こちらに背を向ける形でソファに座っていた林が、「来たか」と呟いて応えの代わりに片手を上げた。
立ち上がった彼は着古しつつも綺麗に手入れをされているスーツを身に纏っている。
「おはようさん。で、今日もいつものところで良いのか?」
けれどその中で、やはり今日も随分草臥れたネクタイだけが浮いていた。
「おはようございまあーす。いつも通りお花屋さん寄ってから海で!」
近付いて手を伸ばし、蛍は草臥れたネクタイを整えて締め直す。するりと先端までを指の間で滑らせて撫でて、あの日、たった一本のネクタイだけを持ち帰ったあの瞬間のことを思い出した。
可能ならば毎月二十二日か二十三日に、それが無理でも必ず一月二十三日には、蛍は許可を取ってこの小さな牢獄を出る。蛍たちを守るためと言う林の言葉に仕方がないなあと笑って、その憎悪と罪悪感のやり場になった、この小さな小さな箱庭から外へと出る。花束は三人分。西岡と、マリウスと、青木の分だ。三つの花束を抱えて、墓さえない彼らのことを自分のために祈るために、蛍は海へと足を運ぶ。
さようならも言えなかった。ありがとうも言えなかった。ごめんなさいも言えなかった。
手のひらに、腕の中に抱いた温度と感触ばかりをいつまでもいつまでも夢に見る三人のために、蛍は命を弔いに行く。
付き添いに林を指定するのは、自分勝手なエゴだった。
きっとそんな出来事は何一つ思い出したくなどないだろうと思う。憎悪に燃えて、思い出さない瞬間など一瞬だってないだろう彼に、青木の死を思い出させる行為はきっとどこまでも心を殺し続ける行為なのだろう。
だけどまだ生きているよと、青木に胸を張りたいのだ。
逃げてと震える声で言われたあのとき、私が勝手にしたいのだとエゴを通した蛍に、ごめんねとしか言ってくれなかった青木に。運命共同体に林を選んだ青木に。まだちらとも薄れない憎悪になるほど林を支え続けてきた青木に。
あの日、連れて帰ることのできなかった、青木奏に。
目の前に立つこの人の身体を、命を、意思を、願いを、憎悪を、心を、すべてを――許しを、生かしてみせると、そうしたいのだと、そう生きるのだと、胸を張りたいから。
今日も林は少なくともその命で身体で生きていると、これからもきっと生きていくのだと言いに行くために、蛍は林を連れて海へ行くのだ。
「天森ちゃん、行こうか」
ネクタイを撫でて、先端を摘まんだまま動かなくなってしまった蛍の頭に、そんな林の手のひらが乗る。
最初は何度も頭を撫でそうになっては手を引っ込めるという動きをしていたのに、蛍が無理やり彼の手を取って自分の頭に乗せてからは大人しく撫でてくれるようになった。そうやって繰り返すうちに、初めとは比べ物にならないほど彼は頭を撫でるのが上手くなった。
その大きくてごつごつとした優しい手のひらに撫でられて、蛍は堪えている涙がまた溶けだしてしまいそうになるのを必死に耐える。まだ泣いては駄目だ、と自分に言い聞かせた。せめて海に行くまでは、泣いてはいけない。なぜなら林はロールシャッハとは違って、ひたすらに蛍を支えてくれる人ではないからだ。蛍が支えようと思うほどに、彼にもまた癒すことのできない深い傷があるから。
それは蛍が持っている傷と似たような形をしているから。
強く目を閉じて息を吸って、吐いて、蛍はぱっと顔を上げた。見上げた先にはいつもの大人の顔でこちらを見てくれている林が、それでもどこか途方に暮れているような空気を滲ませている。まだ泣いては駄目だ、と蛍は思う。
林に此処で、秘密結社ロックの敷地内で青木を悼ませることはできないから。
「……うん、行こ!」
わざとらしくにこーっと笑って元気に言うと、林は鏡に映すようににかっと笑って「ああ」と返してくれた。
*
申請が通らなかった月を除けば月に一度はやってくる蛍のために、花屋では既に三つ分の花束が用意されていた。
最初の頃こそ三つの花束はすべて同じものだったけれど、夏になる頃から花束ひとつひとつにテーマを込めて少しずつ異なったものを用意するようになった。その三種類の小さな花束を抱えて、蛍は隣に居る林を見上げる。
花を手向ける気にもならないかもしれないが、それでも彼は蛍が〈墓参り〉に引っ張ってくるときには花を一輪選んでくれた。それから酒と、その日の気分で選ばれるつまみだ。
花屋の前に停めた車に再度乗り込み、数時間かけて辿り着いた海は、冬ではあるものの風も波も穏やかであった。
微かな冷たい風に揺れる花束を抱きしめて蛍は海辺に近付いていく。
靴を脱いで、靴下を脱いで、コートを脱いで。裸足に触れた波の端は冷たかった。それでも構わず進み、寄せては返す波が足首をくすぐる感触を覚える。林は蛍が靴やコートと一緒にスマホを置いた場所の横で、蛍の背中を眺めていた。
海がふくらはぎを包み、黒いワンピースの裾が波と一緒にゆらゆら揺れる。太ももが冷たい。腰にワンピースの下のブラウスまでが貼りついて、蛍はようやく足を止めた。いっそ倒れ込んでしまおうかなあという悪戯心を誰にも見えない向きのくすくす笑いで窘める。花束を一つ、白を基調としたそれを掴んだ拳ごと海に浸して、蛍は西岡の手のひらを思い出した。開かれた腹と、飛び散った血溜まりの匂い。魔女が「かわいそうなこ」と呼んだあの声のこと。この世に悪態の一つも吐かず、人生の終わりに悔いのひとつも見せず、ただあるがままに死んでいった西岡の青白い顔のこと。
手を離すと、花束はすぐに波に浚われてしまう。それでも行きつ戻りつ、蛍の傍からは離れない。
二つ目の花束は青や水色をベースに作られていた。それを丁寧に海に晒して、蛍はマリウスの涙のことを思い出す。拭ったと思った涙も、きっと本当は幻覚でマリウスには見えてもいなかっただろう。それでも抱きしめた感触は、ひとの身体であってもロボットの身体であっても変わりなく胸を締め付けた。あのとき泣いて泣いてどうしようもなくなっていなければ、蛍はユニマに脱出口の開閉を阻止する命令の撤回を願えただろうか。そうすればマリウスも、せめて電車の中でお別れができただろうか。もしかしたら今頃、スマホの中でロールシャッハとマリウスの二人が小さなスペースに押し合いへし合い仲良くしている姿が、見られただろうか――。十二回目の月命日を迎えても、やはり同じことを考えてしまう。握手をするように握っていた手を開くと、花束は波に浚われていった。
それでもやはり、蛍の傍からは離れない。
「……」
三つ目の花束は、いつもどんな季節でも、必ず向日葵を入れて黄色とオレンジをベースにしていた。
蛍はそれを両手で掴んで、祈るように手を額に寄せる。ごめんね、とあの日青木に言われ続けた言葉が蛍の口から微かに零れ落ちた。
今日まで、林を憎悪の中に生かし続けたこと。明日から、それでも林の命を繋いでみせると意志の揺らがないこと。世界にどれほど絶望していても、ユニマに、モンストロルムに、サポーターにどれほど憎悪を燃やし続けていても、蛍たちを守るためにどれほど罪の意識に苛まれていても、蛍は彼の死を容認できない。
扉を開けないことに蛍はひどく怯えるようになった。
菜月が、瑛詩が、林が命を張る瞬間に、傍に居ないことが恐ろしくなった。
林がすべてを許せないと思う思いに、きっともう、蛍は少しずつ侵蝕されている。
「……おやすみなさい、西岡さん」
きっとそれぞれに、ただ生きていただけだ。
ユニマも、神田も、サーシャも、ディアナも。四つの階層に亘るモンストロルムたちも、生み出されたサポーターたちも。
善意なく、悪意なく、ただそうであるがままに生きていただけ。
それが少し、近い場所に居すぎたから、上手く噛み合わなかっただけ。
そう分かるけれど、それでももう、蛍の中に憎悪の種は宿っている。
「……また会おうね、きっとね、マリウスちゃん」
あの施設から逃げ出してすぐには無かったもの。ただただ悲しみと痛みしかなかった蛍の中にその種を植えたのは林と過ごした時間だ。少しでも絆したくて、痛みを和らげたくて、苦しみを丸くしたくて話し続けた時間のうちに、蛍は影響を与える代わりに影響を受けたのだ。
元から二度と目を離せないと思っていた思いは、そうして二度と一人にできないという思いに変わっていった。
それは歪で、歪んでいて、捩じれ曲がっている。病的な依存に少し似て、ライナスの毛布にも少し似ている。
彼が打倒ラボラトリー・アンセーフを掲げるとき、蛍は同じように隣で命を張らずにはいられない。彼が憎悪の炎を野に放つとき、蛍は隣でその業火を広げるだろう。ロールシャッハとマリウスだけが、あの施設の中で蛍が愛おしむものだから。
そして、それでも、蛍は林を絆したいと思っている。
罪悪感を忘れてしまうほどに小さくして、青木に向けてくれた運命共同体という信頼を勝ち得たいと思っている。
それが蛍には決して獲得しえないものだとしても、そうすることでしか林は息ができないのだと蛍は思うから。疲れたと息を吐いて寄りかかれる背中に、隣に在ることを認めてもらえる存在に蛍はなりたい。憎悪の炎を摘めなくとも、その怒りが前向きなものになればそれでいいのだ。
だってそうすれば、きっと林は少しだけ生きることを見てくれる。
「……生きるよ、青木さん。生きていくから。きっと、いつか、生かしてみせる」
顔を上げて、前を向く。空を見上げて、遠くを見る。
両足の砕けた青木の姿を思い出した。抱きかかえ起こした青木の胸から広がる血が蛍のシャツに移る生温かくて冷たい感触を思い出した。抱きしめたその身体が、いっそう重くなった瞬間の腕にかかった重みを思い出した。
ありがとうって言って、と蛍は我儘を言った。謝ることなんてひとつもないと思っていたから。
青木は二度とありがとうとは口にしてくれなかった。蛍が勝手をしたように、彼だって勝手にしたのだ。
だから良い。林を生かすのは蛍の我儘で、蛍の勝手だ。林が勝手にするように、それに青木が味方するように、蛍は自分のために歩くのだ。
額から下ろした両手を冷たい冬の海に浸けた。祈りの手をそうっと開けば、やっぱり花束は揺蕩って蛍のすぐ傍を揺れている。
涙は出なかった。我儘を言った自覚があるからかもしれない。またくすくす笑いが浮かんできて、蛍は花咲くような笑顔で深呼吸をした。潮の匂いが肺一杯に溜まっていく。
そうして踵を返そうと右足を半歩後ろに下げて、「いたっ」と蛍はすぐさま右足を前にずらした。
爪先立ちをするように逃がした右足の下を半ば振り返るように見下ろせば、澄んだ海面の下に、砂に埋もれる透明な何かが見える。
それが何故だか気になって、蛍は拾い上げようと手を伸ばした。
腰の高さまである海だから、蛍は迷わず頭のてっぺんまでざぶんと潜ってしゃがみ込む。二つに結わえた淡い金色の髪がふわふわと揺らいだ。目を開くと酷く痛そうで、しゃがむ前に見た場所に指先を伸ばして手探りでその〈何か〉を探す。人差し指の先が痛んだ。これだ、という確信があった。
指先で転がして起こし、手のひらに包み込む。握りしめるとやはり痛い。
そうして立ち上がろうとして、蛍は自分の腹に回る何かの感触に驚いた。次の瞬間、急激に海面へと引き上げられる。
「――大丈夫かッ!?」
鼓膜を打つような大きな声に目を開けると、そこにはこちらを覗き込む林の顔があった。
「あ、……と、……?」
状況に頭が追いつかなくて蛍が数秒黙り込む。
引き上げられたと理解して、どうやら心配をかけたのだと思い至った。やっと思考が再開して蛍は「だいじょうぶ……」と答えを返す。未だ腹に回されたままの感触は林の腕だ。凭れかかった状態のせいで、海水が彼のスーツまでも濡らしていた。
林が安堵からくる大きな溜息を吐く。あはは……とついばつの悪い笑い声が出た。
「転んだのかと……なんだ、もしかして自分で潜ったのか? ……サポーターの奴まできみの名前を叫んでたぞ」
「ごめんなさい……あの、えっと。何かあるなって思ったから……」
苦々しげにロールシャッハのことまで伝えてくれる林に、どうやら相当心配を掛ける光景を見せてしまったらしいと蛍は察した。だから素直に謝って、それからそっと右手を持ち上げる。林の目がそちらに流れた。
ぎゅっと閉じたままの右手を開く。
開いて、蛍は「あ……」と呟いた。
自然と全身が強張っていく。
「……」
それは小さなガラス片だった。透明な、まだ海水に削られても磨かれてもいない美しいガラスの破片だ。浜辺で見るシーグラスより幾らか大きく、強く握りしめた蛍の右手に傷を作っている。
「あ……あ、」
「天森ちゃん」
林が蛍を呼ぶ。蛍の右手の指が震える。
反射でもう一度右手を強く閉じて、嗚呼、と蛍は言葉にならない声を零した。
「天森ちゃん、」
林が蛍の名前を呼ぶ。
脳裏に、砕けたガラスの破片が思い出された。互いの服に吸い込まれていく血溜まりと、冷たくて重い青木の身体。硝子細工の少女。かつん、と床を叩く青木の足音。吹き飛ばされた身体。こちらを向く銃口。「ごめんね」。蛍を見る青木の目。死体。青木。塩。
――ごめんね。
握りしめた手を左手で握りしめ、額に寄せた。蛍の癖になった、祈りのポーズであった。
「……天森ちゃん。天森蛍。……蛍」
林が蛍を呼ぶ。
記憶を見て見開かれていた目が、やっとそれを聞き取って焦点を結んだ。血の気の引いた顔で、それでも蛍は確かに林を見上げる。
林の手が蛍の固く閉ざされた手に触れた。
「天森ちゃん。良いんだ。大丈夫だから。……ごめんな」
そしてそのたった四文字に、とうとう蛍の両目から涙が溢れてくる。
謝らないで欲しかった。苦しまないで欲しかった。罪悪感なんて要らなかった。だってすべて蛍の勝手だったのだ。蛍が苦しくなりたくなくて、怖いと思うことが嫌で、自己満足のためだけにすべてやったことだったのだ。それをまるで自分のせいだとそう思って、誰にも謝って欲しくなかった。自分のせいだなんて思って欲しくなかった。それすら蛍の我儘なのだと、本当はちゃんと理解できるのに。
「あ……あ、謝らないでよお……!」
一年前と同じ顔をして、蛍は林にそう言った。
「あ……ありがとうって、ありがとうって言って。ありがとうって、謝らないで、もうごめんねって、言わないで、ごめんなさい、ごめんなさい青木さん、ごめんね、ごめんねって言わせてしまって、わたし、全部私のためだったのに、ごめんねなんて、言わないでって、……なんで……」
眉が寄る。目が細くなる。留めておけない涙が次から次へと溢れ出て、海水と一緒になって海に落ちて溶けていく。林の手の下で、まだ開けない両手にガラスの破片を握りしめた。あの日青木を抱きしめたようにして、蛍は今〈彼〉を手放せない。
「ごめ、なさ、ごめんね、わたし、だって、私が勝手に、生きてて欲しくて、だから、」
「天森ちゃん」
林が蛍を呼ぶ。
見上げたままの視線を掴まえて、林は下手くそな笑顔を浮かべた。
蛍がわざと笑えば同じように笑って見せて、蛍が怒れば冷たい顔で迎え撃ってくる鏡のようになってしまった林の、自分一人でつくった表情だった。
「天森ちゃん、良いんだ。……だから、ありがとう」
その笑顔は、一年前、あの施設で見せてくれた優しい笑顔にとてもよく似ていた。
「――、……う、う……!」
手は開けなかった。祈りはやめられなかった。
それでも凭れかかったままの身体を意識して寄せて、蛍は林の腕の中で声を上げて泣く。
たった五文字のそれが、天森蛍にとっては何よりの許しであった。
「うあ……あ……あぁ……!」
それはあの日、青木が死んで、林の顔を見たあのときから。
二度と〈泣けなかった〉蛍の、初めての啼泣であった。