刀ミュがデリケートな刀の「存在」の扱いに対して上手いなーーと思ったのは今剣や岩融だけではなく源氏兄弟も「確実な存在ではない」としたところ。実際今北野天満宮と大覚寺にいる膝髭は恐らく当時の「源氏の重宝」ではない。そのデリケートな部分に
対して、三日月に「そうではない未来もあった」と、言わせたり、髭切が「箱根権現に奉納されるお前を見に行こう」と誘い「自分も確かな存在ではないのではないか」と不安を漏らす膝丸を描いたり(そして今顕現している「膝丸」が「どの」膝丸かは分からないが恐らく彼の危惧通り「箱根権現に奉納された薄緑」は「本丸の膝丸と全く同じもの」ではない可能性の方が高い)、彼らが実在したものかという問いに対して原作ゲームも現実もイエスともノーとも言わぬし言えぬ現状に対して非常に上手な落としどころだったと思う。しかもそれは「うまく逃げた」のではなく「観客に想像の余地を与えた」形で。
今剣の修行に向かう一連の流れもだけれど、ミュの脚本は現実にも、ゲーム刀剣乱舞にも、ファンにも最大限の配慮と敬意を払って作ってくれているのがよくよく伝わってくる。
本当に、私はミュージカル刀剣乱舞のやさしさが大好きだ。