映画エブエブ(=Everything Everywhere All At Once)を、分離された虚構世界(シノハラ2021)を参照しつつ、【分離された虚構世界】がほぼ画面中になかったと感じた件(ネタバレというか思いつきのメモ)
エブエブに限らず、パラレルワールドものを扱った作品に見られる要素かもしれない、という前置きで、個人的な整理をしておきたくて書いた。
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多元宇宙すべての描写が“比喩でない”ような感触を得た、その出処についての覚書
@tricken (2023-03-13)
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2023年03月12日に私が鑑賞した限り、映画 "Everything Everywhere All At Once" 〔以下、慣例に倣い『エブエブ』と略す〕は、虚構世界の存在論として2つの立場を明示していると思われた。
(1) 作品の起点となる世界(以下、便宜的に【起点世界】と呼ぶ)に存在する人物には、必ず別次元にもスキル参照が可能となるような同一存在(ないし人格が宿った無機物等)が存在する。(これらすべての宇宙のことを【多元宇宙】と呼んでおく。)
(2) 主人公の周辺における主要人物の運命は、別様のありかたを許容しながら、「実質的に同型」のものとして相互に参照しあえると規定されている。つまり、【起点世界】で生存している人々は、別の任意の【多元宇宙】において、必ず何らかの形で存在している。
これを前提に『エブエブ』を見ると、画面に登場するすべての要素は、【起点世界】を含むすべての【多元宇宙】のどれかの世界を描写したものであると解釈しうる。言い換えれば、虚構的真理のうち、シノハラ(2021)が指摘したような【分離された虚構世界】にグルーピングされるような要素はなく、個々の情景の描写がすべて任意の多元宇宙の描写であるという点で【物語世界】に包摂される、と見ることができる。〔註1〕
この理解がどういう鑑賞姿勢を自分に齎したのかというと、『エブエブ』において高速でカットアップされる画面すべてが「作品にとっての比喩でなく、すべて作中の【多元宇宙】のどれかを、(少なくとも【作中世界】の理屈に沿って)映し取ったものである、という構えで見ることになったのだった。それらの“虚構世界内の実在”を一々仮定して眺め、そこに例外を認めない……どんなにドラッギーでもその映像は何ら比喩ではありえない……と仮定して眺める経験をしたわけだ。
そんなのパラレルワールド/多元宇宙/可能世界もの、何と呼んでもいいけど〔註2〕、わりと普通にあるんじゃないの、と言う意見もあるかもしれない。しかし自分にとっては、MCUの近作『スパイダーマン:ノーウェイホーム』でも、『ドクター・ストレンジ:マルチバース・オブ・マッドネス』でも、こうした感触を得ることはなかった。それらMCU系の多元宇宙は、例示された世界以外の演出においては「なんか比喩としてあるっぽい何か」くらいに感じられたのだ。
どうして自分にとって『エブエブ』が、顕著にこのような構えをさせたのか。今回鑑賞終えた後に残る疑問だった。さしあたって今のところは、本文章の冒頭で述べた
> (2)【起点世界】で生存している人々は、別の任意の【多元宇宙】において、必ず何らかの形で存在している。
という設定にまつわる描写が、他のパラレルワールド系作品よりも相対的に丁寧な語りの構造を採用していたからではないか、と仮説しているところだ。〔註2〕
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本文ここまで
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註釈
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〔註1〕
独立哲学者のシノハラユウキによれば、ある作品においてそのように想像するよう鑑賞者に指定してくるもの(=【虚構的真理】)と呼べるもののうち、物語の整合性を考えうる【虚構的真理】の集合としてグルーピングできるもの(=【物語世界/story world】)とは別に、物語世界の整合性に必ずしも貢献しなかったりむしろ損ないうるようにみなせる虚構的真理の集合(=【分離された虚構世界/separation fictional world】)があるという(シノハラ2021: 184, 199-200)。そのうえでシノハラは、【物語世界】と【分離された虚構世界】の両者のグルーピングの方向性には、(a) 物語世界を主とし、分離された虚構世界を従とする主従関係を想定する場合と(シノハラ2021: 237-247)、(b) 物語世界との対応関係を解釈しきれない独立した虚構的真理群として、しかし物語世界と重なり合う形で幾通りかに解釈できるパターン(シノハラ2021: 248-271)の2つのケースがありうると論じている。そしてシノハラの議論の主眼は、【物語世界】と【分離された虚構世界】の相互関係について、特に従属しないパターン、つまり「【物語世界と【分離された虚構世界】とが重なり合う」パターンを具体的にどのように解釈してゆけるのか、という議論に捧げられている。
〔註2〕
虚構世界における、(論理学のみに限らない)可能世界の意味論・存在論としては、三浦(1995)などを参照。ただし近年はもっと良いレビュー論文・書籍もあるかもしれない。なおシノハラの【分離された虚構世界】に関連する議論においては、「フィクションの存在論について中立である」(シノハラ 2021: 252, 注6)という立場を示しており、虚構的真理の集合に対応する何らかの実在する世界を想定してもしなくてもどちらでも構わないような範囲で議論を行っている。また、このような立場表明は、裏を返せば、フィクションの存在論においては「実在を必ず仮定する」立場と「実在を決して認めない」立場の両極がありえ、さらにはそのあいだの様々な optional な立場採用が多数ある、ということでもある。
〔註3〕
この「複数世界における同型存在」を仮定するパラレルワールドの事例のうち、国内で私が思い当たるのは、芝村裕吏ほかアルファシステムのビデオゲーム・シリーズで一時期採用されていた「無名世界観」および「同一存在」という概念であるである(樹想社 2004)。そしてまた、『エブエブ』とその他のパラレルワールドを分けるのは、もしかすると「個々のパラレルワールドでも、概ね同じ運命を辿る」という原則よりもさらに踏み込んで「個々の行為、個々の意思決定を任意のパラレルワールドで行っているその瞬間、別の任意世界でも何らかの表現として落とし込まれる同型の行為が観測しうる」という原則を採用しているからかもしれない。
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書誌
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樹想社. 2004. アルファシステムサーガ. 樹想社.
三浦俊彦. 1995. 虚構世界の存在論. 勁草書房.
シノハラユウキ. 2021. 物語の外の虚構へ. logical cypher books.
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