【その心の蕩揺を・3-1】
早朝、例の盗賊団の残党を見かけたと言うので向かってみれば…確かに連中が潜んでいた。しかし片手で足りる程度の数しかいない上、次の頭目の座を巡り争っていたのだから救いようがない。
「いつか悪の理由を」とミトスは言っていたが、この連中にそんな慈悲を掛けてやる必要は無いだろう。
速やかに片付け戻ろうとすれば、どこに潜んでいたのか、物陰や通路の奥から似たような格好の男たちが武器を手にこちらへ寄ってきた。殺意を隠そうともせず、中には私の持つ剣や装備を値踏みするような視線もある。
「…どこまでも醜い下衆が」
捕らえた少女たちを薬に浸し、穢した者共。ミトスの前で後悔の言葉を並べ、それを信じた彼女に生かされたというのに。こうしてまた集い、次なる企みに手を伸ばさんとするのであれば。
「私は彼女のように優しくはないぞ」
ただ、滅してくれよう。
ようやくひと段落し、街に戻る頃には昼に近付いていた。どこかの家から運ばれてくる料理の香りと、母親が我が子を呼ぶ声が街の平和を表している。
つくづく、残党を討滅したのは間違いでは無かったと思う。私たちが齎した平和を、あのような連中に乱させてなるものか。
そうしてミトスの元へ向かう途中、駆けてくる人影が目についた。
あれは薬師の娘…?
「あっ…! サザントスさん!!」
「私に用か」
「用と言えば用だけど…ミトスさんが昨日夜更かししてたとか、わかりますか!?」
「そなたも知っての通り、私はミトスとは異なり宿をとっている。彼女が寝た時間など知りようもない」
「じゃあミトスさんがお酒を飲んでたとか…」
「それはあり得ぬ。あの者は酒を好まぬからな」
「っ……」
唇を噛み俯く娘に、嫌な予感が這い上がる。
「ミトスに何があった」
「もうお昼なのに、起きないんです…」
「起きない?」
「いくら呼んでも揺すっても、ちょっと叩いても目を覚ましてくれないんです。熱もなくて、一見普通に寝てるだけなんですが…本当に寝てる“だけ”で…」
「私も彼女の様子を見に行こう、そなたは父親を呼びに行け」
「はい!」
駆け出した娘の背を見送り、ミトスが眠る部屋へと急ぐ。これで彼女が起きていれば笑い話になるだけだ。
「ミトス、私だ。起きているか」
部屋の中に気配はある、しかしノックに反応がない。
「入るぞ」
扉が開けられた拍子に、カーテンが軽やかに翻った。おそらく薬師の娘が開けたのだろう、窓から暖かな日差しが降り注いでいる。
その光の中で眠るミトスは、規則正しい呼吸を繰り返していた。平時であれば、この日差しの中でよく眠れるものだと感心するところなのだが。
「いつまで寝ているつもりだ? 薬師の娘が、そなたが起きぬと言って血相を変えていたぞ」
声を掛けても変化は無く、先程と同じく一定間隔で寝息を立て続けている。
頬と額に触れ体温を確認してみるが、確かに熱は無いようだ。いつかの折に触れた時と変わらず温かい。
…そう言えば、前は何故触れたのだったか――
記憶を探ると瞼の裏に舞い散る雪が見えた。そうだ、あれはフレイムグレースに向かう丘の上から聖堂を臨んだ時だった。
同じ景色を眺めながら、彼女は聖堂の威容を称賛し、私はそこへ向かう人の―欲を抱える者の多さに嘆息した。それから二、三言葉を交わし、彼女は何を思ったのか、不意に私の頬に手を添えてきた。
その冷たさと不可解な行動に目を丸くする私を見て、イタズラが成功した子どものように笑うものだから、釈然としない感情そのままに彼女へ同じことをし返したのだ。
ミトスは飛び上がるほどに驚き、それから――楽しそうに笑った。
あの時と同じように、頬に手を添えても彼女は飛び上がりも笑いもしない。当然だ、今の私の手は冷えてなどいないし彼女の意識は眠りの底へ落ちている。
あれから数ヶ月…たった数ヶ月でどれほど魂を消耗したのか。このような状態になるほど、何に魂を費やしたというのだ。
このまま、目覚めぬつもりなのか―
そう考えた時、沸き上がる感情があった。
「…させぬ」
思えばこの者には阻まれてばかりだ。
我が理想を、その手段を。今度は、共に旅をと誘っておきながら人々に何かを授けることもなく、以前と変わらずその時々で誰かの助けになるに留めて回り、今このようなところで生を終えようとしている。余りに勝手過ぎる。
「起きろ、ミトス」
私が見る世界を知りたいと望んだそなたが、何を勝手に死のうとしている。
私はまだ伝えきれていない。そなたが見る世界の美しさも知れていない。
なのに
「勝手に一人で諦め、歩みを止めるな! 私は旅の終わりを了承した覚えはない!」
ああそうだ―長く燻っていたこれは、“怒り”だ。
「そなたの願いは誰もが希望を胸に生きられる世だろう!! そのそなたが―…!」
視界の端に薬師親子が映る。私の様相に驚いているようだが、もはや言葉を止められなかった。
「皆に悲しみを蒔いてどうする! ミトス、目を開けろ!!」
声が届いたのか、それとも騒がしさの余り体が悲鳴を上げたのか、ミトスの瞼が微かに動いた。
「ん…サザントスさん…?」
目を覚ました彼女に名を呼ばれた時の感覚は何に例えるのが近いだろうか。怒りが半ば転化したこれは、おそらくただの安堵ではない。
「ミト――」
「ミトスさあああん!」
「わっ!?」
「な……っ」
「良かったーーーー!! うわああああん!!」
「ええと…」
起きていきなり涙ながらに抱き付かれれば、困惑するのも当然だろう。視線を彷徨わせているミトスを見かねた薬師が促しても、娘は頑として離れず彼女にくっ付いている。その懐きようを見ていたら気勢をそがれてしまった。
まあ、今はいいだろう。ミトスの異変に気付いたのはこの娘だった。姉のように慕う彼女が目を覚まし、安心も一入なのだろう。
「…あの、サザントスさん」
「何だ」
「私は目を開けてますか?」
「……そなた、まさか」
安堵に緩んでいた空気が一瞬で凍り、皆が息を呑んだ。その視線を一身に受ける彼女の瞳は私に向いているようで僅かにずれ、誰もいない虚空を見つめていた。
「ええと、リリィはここ? …良かった、合ってた」
こわごわ伸ばされた手が薬師の娘の後頭部に触れる。感覚の消えた指先で、それでも優しく慈しむように撫でていく。
「リリィ、みんなは元気になってきた? 苦しい思いをしてる子は減ってきたかな」
――何度、“何故”と思えば良いのか。
手指の感覚を、味覚を失い、今度は視覚を失った。先ほどまで意識も無かった。
「何故そなたは、それでも他人を気に掛ける…!」
何故同じように己に心を割かない。そうまでして誰かを想い、そなたに何が返るというのだ。
どうすればそなたは、己を大事にするようになる…!
「ミトスさん、私は一旦家に戻って薬を調合してきます。目に効くものがあるんです」
「待って父さん! あたしも行く! 手が多いに越したことはないでしょ!?」
「そうだな…。すみませんサザントスさん、ミトスさんをお願いしてもいいですか」
「…ああ。薬を頼む」
薬師親子が足早に部屋を出て行ったあと、ミトスは遠く窓の外を見ていた。…もはや光を捉えぬ瞳で、この世界はどう見えているのか。降り注ぐ陽の光は、彼女の心にも届いているだろうか。
そう考えながらふと視線を移せば、胸の前で固く握られた両手が目についた。あまりに強く握るものだから、握られている方の左手が歪に変形している。
「それ以上は手が砕けるぞ」
声を掛け、ようやく自分の手を壊しかけていたことに気付いたらしい。我に返ったように瞬きこちらを向くものの、やはりその視線は僅かにずれている。
両手を解いてやると、彼女は細かに震えていた。この震えを抑えようとして、ああも強く握っていたのか。
「………。」
何故か手を離すのが躊躇われた。
ベッドの端に腰掛け、右手だけ包むように重ねれば、小さな声で「ありがとう」と呟くのが聞こえた。
怒りは消えていた。代わりに、悔やしさが渦巻いている。
「サザントスさん…私、神界であなたと戦った時、死ぬかもしれないって思ったけど、怖くはなかったんです」
「……。」
それは私も同じだった。戦いのさなかに恐怖などなく、消えるその時に私の心を占めたのは圧倒的な後悔だった。しかし結局私は一度消え、フィステラルダに飲み込まれ―その果てに彼女に救われた。
「今日…自分では目を覚ませられなくて、光を失って……、真っ暗で、すごく…こわくて…っ、緩やかに死に向かうのがこんなにこわいなんて、思いもしなかった…!」
重なる手に、縋るように手が重ねられる。
…闇の中にいる彼女にとって、この手だけが外との繋がりに成り得ている。
「私を見ろ、ミトス」
「…?」
顔を上げた拍子に涙がその頬を伝っていった。
震え、泣くほどに怯えているのに、『助けてくれ』とは決して言わない。否、おそらく思ってすらいないのだ。この者が助けを求めるのは常に誰かの為であり、自分の為に他者を頼ることが無い。
そんなそなただからこそ、望むのであれば皆力を貸すというのに。…それこそ神であっても。
「サザントスさん、私、あなたを見れていますか…?」
「こちらだ」
もう少し近付き、目線が合うように顎を僅かに持ち上げる。
淡い緑の瞳は涙に濡れ、光を受け煌めいているが…かつて見たような輝きはやはり無い。瞳の中に私が映ろうと彼女には届かない。ようやくそれを実感し、胸を占める感情が濃さを増す。
いつかの夜に怒りを自覚し、いつかの日は悔しさに歯噛みし、今はまた別の想いが体を動かしている。
こわいと泣きながらこの手に縋り、湧いた感情の名は――
「あの――? っ!」
万華鏡のように移り変わる感情に翻弄されながら、心赴くままに彼女に触れていた。言葉を紡ごうとした唇に指を這わせ、濡らしていく。
さすがに驚いたようで肩を跳ねさせたが手を払い除けることはせず、体を固くしたまま私に身を委ねている。
そのまま重ねられるほどに近付けても抵抗する素振りが見えない。互いの瞳に互いしか映らないような距離だというのに、その手のことに疎そうな彼女が何も反応しないということは…
「本当に見えていないのだな」
「は、はい…」
こちらから近付くのではなく、彼女を引き寄せていたらさすがに気付いただろうが。
「あなたがとても近くにいるのは判りますが、どんな顔をしているのかは判りません。ですが…声がどこか悲しそうです。落胆させてしまいましたか」
「落胆、か」
それもあるだろう。かつて共に旅をした頃から、私もロンドも彼女の瞳の輝きを好ましく思っていた。しかしもはやこの目が私を捉えることは無いのだと思い知り、落胆したのは事実だ。しかしそれだけではない。
「難しいですね、少しでも見えていたら、きっと間違えなかったんでしょうけれど。…リンユウはこんな世界で生きてきたんですね」
リンユウ――かつて友人だった男の落とし子。…私が守らなければならなかった筈の者。
二人はさすが親子と言うべきか、よく似ている。どのような深い闇の中であろうと光を信じ続けた姿が、特に。
「すごいですね、リンユウ。私が同じ境遇だったらきっと、とっくに心が折れて、生きる希望を失っていたと思います」
「私はそうは思わぬ」
例えミトスの目が生まれながらに見えなかったとしても、その所為で他者から虐げられたとしても、彼女もまた人を信じ、心に希望を灯していただろう。
ミトスがどのような地で生まれ育ったのかは判らないが、彼女の強さと優しさはおそらく生来のものだ。環境や性質で左右されるものではない。だからこそ私は――
「………。」
そうして不意に気付いた。否、腑に落ちたと言うべきか。
「ミトス、私は――」
ようやく感情の源泉が判り、いっそ穏やかな心持ちでそれを告げようとした瞬間、外の扉を叩く音が室内に響いた。続いて聞こえてきたのは、今聞く筈のない“奴”の声。
「ミトスさん、いらっしゃいますか? 僕です、ロンドです。あなたにお渡ししたい物があって来ました」
「ロンド…?」
重なった声の一方は驚きに、もう一方は理不尽な怒りに彩られていた。
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