【揺れる記憶】
いつからか、人の望みが声なき声として聞こえるようになっていた。
全ての人の願いが聞こえるわけじゃないけれど、強い願いほど大きく強く伝わってくる。クラグスピアの貧民街はすごかった。耳で聞く音はすごく静かなのに、心に響いてくる声はさざめいて収まることがなく、どれが誰の願いか判らないほどだった。
願いが判らない――それは伝わってくる声が小さいか、数が多過ぎるからかの、どちらかだけだと無意識に思っていた。
たった一人のあまりに強い願いに呑み込まれて聞こえにくくなっているなんて、考えもしなかった。
その願いが聞こえたのは、その人と二人で旅をしていた、ある夜のこと。
始めの火の番を買って出てくれたので、お言葉に甘えて休もうと横になった。
風で木々が揺れる音と焚き木が小さく爆ぜる音が心地良く、うとうとと眠りの波に揺られながらその底へと沈んでいく最中、不意に伝わってきた。
『会いたい』と。
大きい声ではなかったけれど、微睡みを晴らすには十分で。続けて聞こえた声も同じで…でもこっちはもっと強く、切なくて。気の所為ではないと確信した。
身体を起こして辺りを見回すと、火の番をしているサザントスさんと目が合った。
「どうかしたのか」
「いえ…」
彼以外に人の気配はない。ということは、やはり今聞こえたあの願いは彼のもの。
「………。」
あんなに静かな願う声は初めて聞いた。痛みを覚えるほどに強く切ない響きの、真摯な願い。
誰に会いたいんだろう。簡単に会えないような人なんだろうか。それとも、もう会えない人…?ご家族とか恩人?あれほど強い思いを抱きながら会えないのは、どうして…?なんて考えていると、軽い溜息を零された。
「ミトスよ、思うところがあるなら言葉にしてくれぬか」
「あっ」
気付かない内にじっと見つめていたらしい。続きを促す彼の目に、首を振って応えた。
「ごめんなさい、考え事をしていただけなんです」
「私には話せぬか」
「いえ、そんなことは…! でも…そうですね、どう話すか纏まってないので、明日お話ししてもいいですか?」
「それを決めるのは私ではなく、そなただろう」
「ふふ、ありがとうございますサザントスさん」
「夜明けまでまだ長い、しっかり休むことだ」
「…サザントスさんも休むんですから、夜明けより前に起こしてくださいね?」
「ああ、わかっている」
本当かなぁと思いつつ、もう一度横になる。
眠気がそろりそろりと寄ってくる感覚がある。それに逆らわず目を閉じ、体の力を抜いた。
こうしてサザントスさんと交代で火の番をするのも慣れたけれど、どうしてか彼はいつも私を長く休ませようとする。私が後の番なら起こすのを遅くして、先の番なら彼は早くに目覚めてくる。ちゃんと交代の時間になるまで休んでくださいと言っても躱され、何だかんだで私が寝かされてしまったことは記憶に新しい。
まあ…確かにサザントスさんの方が旅慣れているし、体力もあるし、強いし……。私が火の番をするのは、もしかしたら彼にとって安心できるものではないのかも知れないけど…。
……ちょっと、悲しい。
「サザントスさん」
「?」
「…………えっと」
どうしよう。声をかけたのはいいけど、何を言うか考えてなかった。
何て言おう。もっと頼ってください? 足手まといにならないよう頑張ります?
違う、どれも言ったところで彼には届かない気がする。
「ミトス?」
眠気で鈍った頭はうまく回らなくて、判断力も落ちていた私は、気付けば先程のように思ったことをただ口にしていた。
「…あなたが心配です」
「何?」
「体力とか色んな面で、私はあなたに及びませんが…。それでも、あなたの休む時間が短いと心配になります」
サザントスさんのことだから、きっと最低限の時間は確保しているのだろうけれど。これは要らない心配なんだろうけれど。
「しっかり休んで――は、私の台詞でもあります…」
自分で思うより消沈した声になってしまった。
だからか、微かに息を呑む声が聞こえた。
「……良かれと思ってしていたことが、却ってそなたを苦しめていたとは…。すまなかった」
「いえ、謝られることじゃ…! 私の方こそ、感謝こそすれ文句を言って―」
「起き上がるな。…夜明け前に起こすのだから、身体を休めておけ」
「はい…」
「何も心配することはない。火は私が見ている。時間になれば交代を頼む。だからゆっくり休むがいい」
その声に同意を示すように、ぱちん、と焚き木が弾けた。
「……おやすみなさい、サザントスさん」
「ああ」
彼の低く穏やかな声に送られ目を閉じると、にじり寄ってきていた眠気が瞬く間に私を沈めた。
あらゆる感覚が遠ざかり眠りへと落ちるその直前、一瞬だけ彼の願いが再び聞こえたような気がした。
―――……
「……眠ったか」
穏やかに繰り返される呼吸と落ち着いた気配。それは彼女が眠りに就いたことを示していた。
つい先程まで話をしていたというのに、こうも早く眠れるということは、やはり疲労が溜まっていたのだろう。
無理もない。邪悪が蔓延る今の世において、浄化を担う“選ばれし者”たる彼女が休まる時など皆無に等しい。ミトス自身はそのことに無頓着なのが余計に性質が悪い。
だからこそ、少しでも長く休めるようにと思っていたのだが。優しい彼女は私のことが心配になってしまったようだ。
彼女が言うように私自身は必要な休息をとれているため、要らぬ心配ではある。私よりも己の心配を、と言ったこともあるがおそらく真意は伝わっていまい。
「………。」
変わらぬのだ。彼女の優しさは。
己よりも他人を想うその気質に、懐かしさともどかしさが募る。
『――て…また、―――…しょう?』
あの日から、そなたに再び会える日を心待ちにしていたというのに。次に見(まみ)えた時にはそなたを守れるくらい強くなっていようと、そう決めていっそう鍛錬に励み、程なく聖火騎士となり、聖火守指長を継承し……“選ばれし者”に会えたというのに。
彼女は――ミトスは、そなたではない。
どれだけ待とうが、もうそなたに会うことは叶わない。それを知って約束したのなら、そなたはとんだ嘘つきだ……が。
あの時の彼女の目は切なく揺れ、澄んでいた。嘘を吐いたのだとは到底思えない。
ならば、私達が生きて再会できる未来があるのだろうか。
…彼女は、大切な人を亡くし、その結果ここに来たと言っていた。ならば――
「………。」
ふと浮かんだ思考を己で嫌悪した。約束を果たしたいが為に、誰かの死を望むなど許されることではない。
何より、彼女は深く傷付き泣いていた。あの涙を止めたいと、笑っていてほしいと思ったのは、他ならぬ私自身だ。
ミトスは、彼女ではない。深い悲しみが彼女への道を開くのだとしても、ミトスが悲しむのは……見たくない。
「……ぅ、…ん…」
「!」
眠るミトスが寒さを厭うように体を丸めた。
フラットランドは温暖とは言え、夜はそれなりに冷える。フロストランドに近いこの場所なら尚更だ。
焚き木を追加したが、思うより火が大きくならない。これでは凍えたままだろうと考え、身に着けていたマントをかけてやると再び穏やかに眠り始めた。
その安心しきった、無防備な寝顔を見ていると、何か妙な感覚が胸に芽生えた。
…微かな息苦しさを伴った、温かくも焦がれるような感覚。この感情は何だ。何を源泉とし湧いてくる?
「………。」
その正体を知ろうと、導かれるように彼女へと手を伸ばし――頬に触れた。
グローブ越しであってもわかるその柔らかさに少し驚く。女性は皆こうなのか、それとも彼女だからなのか。
ゆっくり指を滑らせていると、彼女は吐息ともつかない声を漏らし微かに笑った。
「…………。」
何をしているのだ、私は。
何故、彼女に触れれば判るなどと考えた。判るわけがない。胸を焦がす熱が増すばかりではないか。
否、それよりも…まさか普段からこうなのか?
旅団の者と共に在るならば良いが、そうでなければ襲ってくれと言っているようなものだ。
“選ばれし者”としての自覚を持てと、以前も言ったというのに。自衛の術を身につけてもらわねば。
「…誰にでも優しく、正しく在るのが、そなたの善きところではあるが」
私や旅団の者が常に傍にいるとは限らない。簡単に人を信じ、隙を晒してしまうのは危険だ。
彼女の目が覚めた後にでも、普段はどうしているのか訊いてみるとしよう。何か教えられることがあればその時に伝えれば良い。
ずれたマントを掛け直してやり、私は元の位置へと戻った。
―――……
…ゆりかごのような心地を覚えた。
柔らかく、ゆらゆらと目覚めを促す声がする。
「……ス、ミトス」
「ん……」
「ミトス、交代の時間だ。それともそのまま寝ているか?」
「ふぁ……!? わ、あ、起きます…!」
慌てて体を起こすと何かがばさりと落ちた。
「マント…? これ、サザントスさんの…」
「寒そうにしていたからな」
「じゃあいつもより、よく眠れた感じがするのはサザントスさんのおかげですね。ありがとうございました」
と言ってマントを畳んで差し出せば、彼は片手でそれを受け取り、もう一方の手は何故か私の頬に添えられた。
一瞬驚いたものの、まっすぐに見つめてくる目は何かを確かめようとしているように見えて。距離の近さに少し緊張しながらも、私はその視線を受け止めた。
青い瞳が、彼自身が扱う炎のように静かに揺らいでいる。
綺麗だなと思って見ていると、同じことをサザントスさんが告げてきた。
「そなたの目は美しいな」
「サザントスさんも――」
きれいな目を、と言おうとして気付いた。
この人は何か、深い悲しみを抱いている。それが奥底で揺らめいて、光が遠い。
どうすれば元気付けられるだろう。そんな悲しみを抱えて、苦しくないだろうか。心が重くないだろうか。
踏み込むことが許されるなら、話を聞きたいけれど…。
「サザントスさんもきれいな青い瞳で、私はとても好きですが。ちょっと疲れが見えますよ? ちゃんと朝まで休んでください」
抱えているものを明かさないということは、踏み込まれることを望んでいないのだと思って。「疲れが見える」なんて少しごまかして気遣うに留めた。
…本心を隠した言葉、というのが苦手だから、もしかしたら隠したことに気付かれてしまったかも知れないけれど。
それでも、心配なのは変わりない。彼のグローブに、温もりを分けるように手を重ねれば、頬に添えられていた手がふわりと離れた。
「そうしよう。これ以上そなたに心配をかけるのは本意ではないからな」
「朝ごはんの支度もするので、楽しみにしててくださいね」
そう言うと彼は、何が出来上がることやらと薄く笑いながら元いた場所に戻り、横になった。
「………。」
サザントスさんは、とても静かに眠る。ただ横になっているだけなのか、眠っているのか、判断に迷うくらいだ。
それでも彼が横になって少し経ち、どことなく気配が落ち着いたのを感じて、私はそっと祈りを捧げた。
「…どうか良い夢を」
深い悲しみを抱くこの人に…、険しい道を歩み、誰かに“会いたい”と願い続けるこの人に、どうか今だけでも安らぎを。
そうしていつか、会いたい人に会えますように。