『黑世界』日和の章 「青い薔薇の教会」のふたりについてずっと考えてしまうんですけども、5年間をふたりであの教会で暮らしながら苦悩したりほだされたりそれに罪悪感を抱いたりして過ごしてたのだろうからすごいなあ…………。
モスカータが青い薔薇が咲かせてから相当ほだされたゆえに苦悩も深まっただろうけども、神父は基本的に教義に則っているし試す側だったから、余裕があって優しくできる最初の2年間があったんでしょ……。
薔薇の芽が出ないまま少なくとも3年目までは見守っていて気が長いし、4年目以降は薔薇が順調に増えていく庭に罪悪感がありつつも、その報われるべき成果に一緒に喜んでしまった日々があった……。
5年……5年かあ……5年……。
教会のある村は人間社会なのだから、吸血種のモスカータとかそもそも食べるものも違うし……。本当によく暮らしたな。
吸血種と暮らすことになる神父、そばにいろとモスカータに要求したのは自分なのだから……と律儀に責任感覚えていそうだし、先に根を上げるわけにはいかない……みたいな意地もありそうだし難儀。
あのさあ神父はさあ(何目線?)、妹が世話した青薔薇が荒れ果てたことを心が千切れそうに悲しくて、贖罪……というか試練のようなかたちでモスカータに任せたけども、実のところはモスカータの手で薔薇が咲いてほしくもなかったんじゃないかと思うんですよ。モスカータには……妹以外の世話では無理なんだと再確認して、あの子のいない庭で妹の存在の大きさや、モスカータの贖罪の気持ちをそんな程度かと試したい気持ちもあったはずなんですよ。
でもモスカータはさあ、彼女が大切に育てていた薔薇を本当に大切にしようとして咲かせてしまったじゃないですか。殺した妹さんと遺族の神父に誠実をつらぬこうとして。
「あの子のいない庭で、花は美しく、咲いた」あの子がいないのに!
モスカータの心と祈りが不可能を越えて青い薔薇を咲かせてしまったから、神父がモスカータの贖罪を試した分の矛先がすべて「それで、私は赦してやるべきモスカータのことをはたして赦せるのか」となる……。
庭の世話をしはじめた頃は青薔薇のトゲで手を傷だらけにしていたモスカータ、手当てをしてやった神父。だんだん青薔薇のトゲで怪我をすることもなくなっていくモスカータ、手当ての機会を失っていく神父です。試練からの罰、そして許しのプロセスがなくなっていくときどうすればいいんだ~!?
妹を無残に殺したモスカータの仕打ちを許せないのに、彼の贖罪や優しさが本当だと信じてしまえたし、自分を許せずに自責しつづける彼を救いたいとも思ってしまったんだよ神父は……。じゃあ裁けるのも許せるのも自分の権利であり自分の心次第じゃん……。
そしてそれを決めてしまうのも難しいのなら、ふたりで一緒にこのまま過ごして、いつか答えにたどり着く日がくるように祈るしかないじゃん……という5年間でしたね。
それほど向き合いつづけたのだから、大衆の私刑に対象をかっさらわれるのも片腹痛かろう。そもそも人間が吸血種の命運の権利をただひとり握っていると宣言するのもモエ!ではないですか? 人間と吸血種の間にイニシアチブは存在しないというのに。
モスカータがいなくなったあと、神父だけになった教会では、また以前のようにも、モスカータがいた時のようにもいかずに青い薔薇の庭は荒れていくんだろうな……。あの子と彼のいない庭です。