アメリカン・アニマルズの感想、自分にとってこの作品の肝は、身勝手で愚かな犯行が、全く無実の他者を踏みにじることになった、そしてそこまで考えが至らなかった彼ら、あるいは「わたし」の想像力の欠如というところにある
アメリカン・アニマルズの肝は私個人からすると、特別な何かになりたくて夢を見た若者たちが現実の厳しさに挫折するところなんかではなくて、身勝手で愚かな犯行が、全く無実の他者を踏みにじることになった、そしてそこまで考えが至らなかった想像力の欠如、というところにある。この想像力の欠如は、実在の人物4人でもあり、見ている我々にもかかることである。スタイリッシュな強盗映画の皮を被って、観客をノせておきながら、最後にしっかり痛い目に合わせる。こういう映画ができるんだ、と終わった後に思った。
私は強盗映画が好きで、特に「レザボア・ドッグス」がオールタイムベストに入ってるのでMr.ピンクとかのやり取りにはニヤニヤ止まらなかったし、それだけで評価が無駄に上がっていた
エルヴィスのA Little Less Conversation(会話は少しおさえて)にのせて犯行の想像をするところなんか、「お前これが撮りたかっただけだろ」になる最高潮のモーメント。
でもそうやってガンガン盛り上げておきながら、実際にいちばん衝撃だったのは、脅された司書の方が失禁するところ。あ、人間なんだ、って当たり前のことを思った。実話と言われておきながら、自分自身にこの実感が抜け落ちていたことに恐怖を覚えた。これは彼らの話だけど、自分自身にも問いかけてくる話だと思う。
強盗映画において、直接的にしろ間接的にしろ被害にあう人はいる。その一人一人が生きていて、息をしているということを、映画の中で実感することはあまりにも少ない。でも、この映画が「スタイリッシュな強盗」から「若者4人による犯行」に変わった瞬間、痛々しいほどその罪を感じた。こんな作品は見たことがなかった。同時に、「アメリカン・アニマルズ(アメリカの怪物)」というタイトルがスッと腑に落ちた。
彼ら──ミドルクラスの若年層白人男性──の「身勝手さ」を、アメリカという国のみで説明できるか私には分からないけれど、しかし製作陣にはその意図があったと思う。自らが輝くためだけに、安易に他者の踏みにじること。他者が痛みを感じる人間だという事実を忘却すること。フィクションとノンフィクションを行ったり来たりしながら、その危険性を印象づける。物語(フィクション)では、それはカッコよく見えるかもしれない。しかし現実(ノンフィクション)にいるときは、痛みを強く認識していなければならない。