結局、芥ヒナコがオフェリア・ファムルソローネの死を悼んだのは何故だったか(ネタバレあり)(超長い)
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ふわっと考えてた事。
intro3-3でコヤンスカヤの報告を受けて一番最初に噛み付いたのはヒナコだった訳だが、この時は情報が出揃っていなかった為よく判らないままなんとなく「オフェリアの事を実はそれなりにチームとして大事に思っていたのかな?」と考えていたものの、芥ヒナコの正体が真祖虞美人となれば話が違ってくる。
虞は根本的に人間が嫌いだからである。人間が嫌いで、もっと言えば『人間の作る世の騒がしさ』を忌み嫌うあまり、わざわざ経歴を偽って嫌いな人間の振りをしてマリスビリーという人間の下に就く事を良しとする程に、虞は人間の作る世を憎悪している。それなのにオフェリアの死を悼んだように見えたのは何故だったのか?
恐らく、虞の中の『人間が嫌い』という根底になんの揺らぎはなかったものの、『オフェリアという個人は嫌いになれなかった』という側面があったのではないかと思われる。理由は3つある。
①虞はそもそも人間を嫌いになりきれていない
これは高長恭(英霊としては蘭陵王であり生前の個人を高長恭と仮に称する)のやり取りを見れば判る。虞の回想という手法で語られているので、汎人類史における高長恭だ。つまり人間としての高長恭である。
『末期と聞いて、問いに来たのだ。もしもおまえが望むなら、おまえの運命を翻弄した者共、その空しき忠義を強いた者共を、すべて血の海に沈めてやるが?』
人間である高長恭の死に対し、仇討ちをしてやっても良いと真祖が言う訳である。
更に、この当時の約束を回顧して、マスター芥ヒナコとして蘭陵王を召喚するに至っている。高長恭への個人的な信頼や信用がなければこれはしない。
虞の忌み嫌う戦で戦い続けた武人である高長恭に敬意を以て対応しているのが判る。
②虞は人間の持つ「死に至るまでの生の輝き」に嫉妬している節がある
これも高長恭との回想から。
『私は、妬いているのかもな。ついにおまえが至る死を、そこに至るまでの生の輝きを。』
オフェリアはクリプターとしてではなく、その意志によって、スルトを止めるという覚悟によって大令呪を使用した。つまり、虞が生前の高長恭に見たように、「理不尽でも自分が選んだ死に殉ずる」事をオフェリアは成し遂げている。
コヤンスカヤに『何も行動しなかったのなら何も言うべきではない。これ、人間社会の常識でしょう?』と言われて激怒しているのは、①決して人間ではない真祖虞美人と知って尚コヤンスカヤが芥ヒナコ個人にそれを言った事、②項羽が敗北した四面楚歌においても虞は何もしていない(という描写はないが何かしていれば項羽が負ける事はなかった筈である。虞は項羽に力を貸す事はしていない。これは、項羽との最終戦で虞が弱体化していた事にも一端があるのではないかと思われる。虞はそもそも、真祖をしての力を振るう事にかなり消極的だ)事を言い当てられたような気になった、それから後述に挙げる点も踏まえて3つの理由ではないかと思われる。
③オフェリアもまた魔眼という大き過ぎる力に振り回された結果命を落としている
これは項羽もそうであるし、虞もそうである。項羽は天下泰平の機構であったが故に誰からも理解されず命を落とし、虞もまた真祖であり不老不死である事で人間から忌み嫌われている(ここで面白いのが、虞は「どうして命の長さが違うだけなのに人間はこんなに自分を嫌うのか?」という点でしか評価していない点である。虞が如何に自分の力に対し無自覚ながら相当のストップをかけて生きていたかよく判る。自分が強過ぎる事は、彼女にとって人間との差異には成り得ないのだ)。
オフェリアは人間ながら、虞にとっては「まだ割と理解できる」人間だったと考えられる。また、introでキリシュタリアがオフェリアを『穏やかな女性』と言っている。オフェリアをして「穏やかな」という形容詞が出るだろうか? オフェリアは大量の尤もらしい肩書きがある。時計塔でも才女とされた人間である。また、クリプター会議ではベリルに食ってかかったりするなどしている事からも、「穏やかな」という形容は出にくい筈である。
しかし、我々は2章のゲッテルデメルングを経ている為、オフェリアが「穏やかな」女性と言われても納得できる。彼女は本質的に善人過ぎる善人であったし、戦い自体を望んでいたのではなく、キリシュタリアへの感情だけで動いていた。
これをクリプターは見抜けていなかったと思われる。あるいは、デイビットやペペあたりは知らない振りをしていたかもしれないが彼らの本格的な出番はまだなので判らない。ただ、キリシュタリアは確実に見抜いていたから『穏やかな女性である事は、よくわかっていた。』と言葉が出るのだ。「よく」判っていたのである。
そして恐らく、虞も見抜いている。本で顔を隠し、周囲を観察していた事はマシュの告白からも判る通りだ。正確に個人を見ていたからこそ、オフェリアをよく見ていて、知っていた筈なのだ。
これら3つの視点から、虞美人にとってオフェリア・ファムルソローネは嫌いになれない人間であり、むしろ同情的な視線を向けていてもおかしくない事が判る。しかし、虞は虞美人であって芥ヒナコであり、芥ヒナコとしてはオフェリアに過度に近寄る事はできないし、しない。別に近寄りたかった訳でもないだろう。人間が嫌いである事に変わりはないし、オフェリアが人間であった事も変わりはない。
だから何もしなかったし、何も言わなかった筈なのだ。
別にオフェリアと友達になりたかった訳ではないし、なる事もできない。それでもオフェリアの事はよく判る。オフェリアが善人であり、純粋な魂を持っている事も判っていて、その上でその純真さ故に命を落とした事もつぶさに理解できる。彼女なりの、真祖としての人間との距離感だった筈である。それをコヤンスカヤから死んだ後で「何もしてないんだから文句言うな」と言われたら怒る筈である。コヤンスカヤはオフェリアの弱さはよく判っていたが、オフェリアの魂の美しさには興味がなかったままだからである。
芥ヒナコの皮が一瞬剥がれ、虞美人としての怒りが僅かに出てしまったのが、あのintro3-3であったのではないだろうか。
虞は魂の純朴な者が無残に死んでいくのがあまりにも悲しいのだ。悲しいと思う事も2000年の中で擦り切れて、ただただ空しくて、疲れてしまった。またひとつ空しさを手に入れた事で、あの怒りが発露されたのであろう。