#宝石の国
最終話「宝石の国」
祈りましょう。あなたがずっと会いたかった人に会えるように
有難う「宝石の国」私はこれを安寧と救いの物語だと思います。仏教に思いを馳せつつ以下米津玄師さんのインタビューを引用しながらの感想です。
"人間って状態の連続だと思うんです。人間性やその自認って未来永劫固定された自明の事実ではない気がするんですよね。別にたゆたっていて当たり前だと思うし。今日私はこういうふうに生きているけど、明日になってもまた同じとは限らない。そういう気分はすごく理解できるんですよね。もちろんそれと同時に変えようがないものもあると思うんですけど、やっぱり基本的には状態の連続で、アポトーシスを繰り返して細胞が入れ替わっているのと同じように、ずっと死んでは生まれてを繰り返している感じがあるんです。"
米津玄師「さよーならまたいつか!」インタビュー|“キレ”のエネルギー宿した「虎に翼」主題歌 - 音楽ナタリー 特集・インタビュー https://natalie.mu/music/pp/yonezukenshi26 より引用しました。
わたしはこれが仏教のように思えてなりません。そして仏教がモチーフである「宝石の国」もまた、このような感覚から生まれている気がします。全てのものはずっと死んでは生まれてを繰り返しています。その中の一瞬が今であるだけ。これにはいろんな意見があると思いますが、私はとても共感します。
フォスの欠けた小さな小さなかけらが大きな彗星となり、どこかの星のフォスをまた照らすように、全ては変わります。
そして、動かなくなった兄機が穏やかな停止を迎えた時、ママに、アユム博士に会えますようにと願うことこそ「祈り」だったのだと。ここで前回の太陽系の終わりと共に消えたフォスへの「祈り」と同じく、本来の「祈り」が描かれました。私も兄機に祈りたいです。
ずっと会いたかった誰かに会えますように。動けなくなっても穏やかでいてください。何と言う根源的で穏やかな祈りでしょうか。兄機は「無」ではなく、アユム博士のところに行ったのだと私は思いたいです。
フォスたちのあの星が修行世界である極楽浄土なのかそれとも悟りの世界である彼岸なのか考えていたのですが、兄機に停止した先が、今の残ったフォスや石ころさんたちにも止まる先があるのであれば、まだ彼岸ではなく極楽浄土なのかもしれません。
浄土真宗だと極楽浄土へ往生することがそもそも成仏となるそうですね。人間が思い描く喜びを遥かに超えた法楽の世界が極楽浄土だそうです。
https://higan.net/somosan/2011/12/gokuraku/
(そもさん:極楽に往生した後って、そこでなにするの? より)
ともかく、12巻の特典としてついてきた冊子に描かれた、月人になった宝石たちと月人たちの1万年のパーティーよりもずっとずっと穏やかで純粋な喜びがあの星にあるような気がします。
そして、フォスと石ころさんたちは「真理と一体化し真理そのものになった」存在の「仏」のようにも見えます。この穏やかさに涙が出ます。
たくさんの人間を内包していた宝石たちも月人たちも誰一人たどり着けなかったところへ、純粋なフォスフォフィライトはたどり着くことができました。
ところで急に重い話するんですけれど、「生まれてきたくなかった」と思ったことありますか?あんまり良い感情だとは思わないんですけれど私はしょっちゅう思っています。
子どもの頃から人に恵まれて愛情を受けて教育も受けさせてもらって、悲しいことや落ち込むことはあったけれども、仕事を得て現在何とか「幸せだなぁ」と思う瞬間を得ることができる。ただ、「幸せだなぁ」と思う瞬間と同じくらい「生まれてきたくなかった」「もう何も考えたくない」「これ以上誰かに、大切な人たちに迷惑をかけないために消えたい」と思う時があるんです。
自ら死ぬことは良くありません。頭でわかっています。生まれてきたくなかったと考えることも良くないことです。たくさんの人を悲しませます。論理的に理解している気持ちです。
でも、でもどうしても湧き上がってきてしまうこの感情に寄り添ってくれるのが「宝石の国」という物語でした。
うまくまだ説明がつかないのですが「生まれてきたくなかった」とたまには思って良いんだよ。「誰かに、大切なひとたちに迷惑をかけないために消えたい」と思ったって良い。だって、全部は変化するからと私に言ってくれるのが「宝石の国」でした。慈悲を感じました。
あなたが誰かにかける期待も執着も愛ですら一瞬のもの。もちろんあなたを苦しめる「生まれてきたくなかった」という感情も必ず変化する。
宝石の国は地獄だ地獄だと言われていましたが、私はこうしたどうにもならない、ふっと湧き出てきた負の感情を「良くないものかもしれないけれど湧いちゃうよね」と伝えてくれる作品だと思います。現状を現状のまま見なさいというメッセージを込めようとすると、こういうお話になるのかもしれません。
米津さんの仰る通り、全ては生まれて死んでを繰り返しているのだから、「生まれてよかった」も「生まれてきたくなかった」も「生き続けたい」も「死にたい」も当然そこにある感情として表出されます。肯定も否定もされません。
そして、肯定も否定もされないその感情は結局その瞬間に生じては次に消えていく。
昨日のあなたと今日のあなたは違うものです。というか1秒前のあなたと今のあなたは違うもの。そっちが自然で当然なんですよという姿勢に、私は救いを感じます。
苦しみを苦しみと捉えることも、喜びを喜びと捉えることも結局は「そうであって欲しい」という偏ったものの見方なのです。
そこから解放してくれたのが「宝石の国」という物語でした。
また「愛さなくて良い」というメッセージも好きです。誰かの特別になりたい。誰かに寄りかかりたいという感情は湧いてくるけれど実は苦しみの元である。愛さなくてはいけない、愛されなければならないという「べき」理論に「愛」を当てはめるようなことって多いと思うんですが、それに対して「いいえ、愛は執着です」と言ってくれることに私は救いを感じます。ここに疑問を持つ方も多いと思いますが、「愛さなくて良いよ。愛されなくても良いよ」と言われた方が「そのままの今の自分で良いんだ」と思える方はいるのではないでしょうか。私もそう思う時があります。
「愛って普遍的にあるものだなぁ」と思う時も、「愛する、愛されることが義務になるとつらいなぁ。愛する、愛されるって状態が不自然だなぁ」と思う時もあって、結局のところどっちだって良いのかもしれない。良いとか悪いとか決めること自体ナンセンスかもしれません。
別に愛さなくたって、愛されなくたって、フォスフォフィライトは新しい岩石生命体たちや兄機に出会える。純粋なフォスフォフィライトの部分を太陽系の外に連れ出してくれる。ここにも私は救いを見ました。
そして最後の「あそぼ!」です。
無理やり「役割を果たさなくては」「何者かにならなくては」「何者かを愛さなくては」と思わなくたって、「あそぼ!」って言える。花に溢れた惑星で。
フォスだけが渡りきれた108の煩悩の激流は108の話数に重なります。フォスはその煩悩の激流を渡り、石ころさんたちと楽園にたどり着くことができました。
あのキャラクターが好き、このキャラクターが好きと「キャラクターが好き」と思うこと自体、そのキャラクターに対する期待、愛という名の執着であって、変容していく彼らに拒否反応を示すことすら人間の偏った見方の表れでしかない。
ただ、ただ小さい小さいフォスが「あそぼ!」と自分から周りの石ころさんたちに当たり前に声をかけられる。かけて小さくなったフォスを「かけちゃったね」とその現状だけを見てくれる石ころさんたち。第一話の孤独なフォスを思い返せばこれは本当に救いだと思います。
ありがとうございました宝石の国。ありがとうございました市川先生。
単行本が出たらまた買って読みます。この最終回までに読み切ろうと思っていた般若心経の本を読みきれなかったのでまた感想を書くかもしれません。
私の書いた今日の感想もいつかこの宇宙や別の宇宙の中でバラバラになって変化してどこかにたどり着けますように。
最後に、臨済宗の白隠禅師坐禅和讃を紹介させてください。漢文が多かった禅宗の典籍の内容を日本語にしたものです。子供の頃から「良いなぁ」と思ってきた、私の宗教観の核のようなものかもしれません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%90%E7%A6%85%E5%92%8C%E8%AE%83
兵庫県のお寺さんがホームページに現代語訳を載せてくださっているのでこちらもわかりやすいかと。
http://www.daizouin.com/%E7%99%BD%E9%9A%A0%E7%A6%85%E5%B8%AB%E5%9D%90%E7%A6%85%E5%92%8C%E8%AE%83/
横浜のお寺さんの現代語訳もわかりやすいです。
https://koufukuji.yokohama/scripture/12
この白隠禅師坐禅和讃にある
当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり
この言葉を思い返しながら何度も宝石の国を読み返そうと思います。108話でやっと宝石の国に辿り着けたフォスを思いながら。