北斉書の巻十一、蘭陵王の項を全文和訳しました。
原文は唐李百藥撰,北斎書 巻十一 蘭陵王孝瓘 (中華書局)より抜粋。注釈番号も原文に準拠しています。
元ツイートで意訳とありますがほぼ直訳です。
……色々ガバガバなのは許してください。
蘭陵武王長恭,一名孝瓘,文襄第四子也。
(蘭陵武王長恭は,またの名を孝瓘といい,文襄帝の第四子であった。)
累遷幷州刺史。
(彼は昇進し幷州の長官となった。)
突厥入晉陽,長恭盡力撃之。
(突厥が晉陽に攻めてきた際,長恭は力を尽くして突厥を迎撃した。)
芒山之敗[四],長恭爲中軍,率五百騎再入周軍,遂至金墉之下,被圍甚急,城上人弗識,長恭免冑示之面,乃下弩手救之,於是大捷。
(芒山之敗において,長恭は中軍を務めており,五百の兵を率いて再び周軍へ突入し,遂に金墉城に辿り着くが,城は兵に囲まれ切迫した状況であった。城の者は長恭が来たことを知らなかったが,彼が冑(かぶと)を外し顔を見せると,やっと城内の兵が弩(おおゆみ)を放って彼の味方をし,大勝利を収めた。)
武士共歌謠之,爲蘭陵王入陣曲是也。
(武士たちはこの出来事を歌にし,それが蘭陵王入陣曲となった。)
歴司州牧,靑瀛二州,頗受財貨。
(彼は司州と靑瀛の二州の地を与えられ,多くの褒賞を受け取った。)
後爲太尉,與段韶討栢谷,又攻定陽。
(後に太尉となり,段韶と組んで栢谷を討ち,また定陽を攻めた。)
韶病,長恭總其衆。
(段韶は病に罹ったため,長恭が軍を率いた。)
前後以戰功別封鉅鹿、長樂、樂平、高陽等郡公。
(その前後には戦功を称えられて,鉅鹿、長樂、樂平、高陽などの郡公に任命された。)
芒山之捷,後主謂長恭曰..「入陣太深,失利悔無所及。」
(芒山で勝利した際,後主は長恭に「陣地へ深く入りすぎである,負けたら後悔したところで仕方ないだろう。」と言った。)
對曰..「家事親切,不覺遂然。」
(それに対して,「それが家の仕事でありますので,そのようにしてしまいました。」と長恭は答えた。)
帝嫌其稱家事,遂忌之。
(皇帝は戦を家の仕事と言われたのを嫌がり,やがてそのことを恨むようになった。)
及在定陽,其屬尉相願謂曰..「王既受朝寄,何得如此貪殘?」
(定陽にいた頃,長恭の下官である相願が「あなたは既に朝廷からの褒美を受けているにも関わらず,なぜその褒美を貪り損なおうとするのですか?」と聞いた。)
長恭未答。
(長恭は答えなかった。)
相願曰..「豈不由芒山大捷,恐以威武見忌,欲自穢乎?」
(相願は「まさか,芒山の戦いで軍功をあげたことを皇帝に疎まれるのを恐れて,ご自身の評判を落とそうとしているのですか?」と聞いた。)
長恭曰..「然。」
(長恭は「そうだ。」と答えた。)
相願曰..「朝廷若忌王,於此犯便當行罰,求福反以速禍。」
(相願は,「朝廷がもしあなたを忌み嫌っているのなら,このような行為は罰を与えるための理由となってしまいます。助かろうとしてかえって朝廷の怒りを買ってしまいますよ。」と言った。)
長恭泣下,前膝請以安身術。
(長恭は泣き崩れ,膝をついて身を守る術を教えてくれと願った。)
相願曰..「王前既有勲,今復告捷,威聲太重,宜屬疾在家,勿預事。」
(相願は「あなたは既に武勲をお持ちであり,今はまた戦に勝利したのですから,朝廷が睨んでおられるかと。家に戻り,戦には出ないことです。」と言った。)
長恭然其言,未能退。
(長恭はその通りだと思ったが,それでも退けなかった。)
及江淮寇擾,恐復爲將,歎曰..「我去年面腫,今何不發。」
(江淮が攻められ世が乱された時は,再び将軍に任命されるのを恐れ,こう嘆いた。「私は去年顔が腫れたというのに,なぜ今はそうならないのだろうか。」)
自是有疾不療。
(このときから,彼は病に罹っても治療をしなかった。)
武平四年五月,帝使徐之範飮以毒藥。
(武平四年の五月,皇帝は徐之範を遣わし毒を飲むよう命じた。)
長恭謂妃鄭氏曰..「我忠以事上,何辜於天,而遭鴆也。」
(長恭は妃の鄭氏に対し,「私は忠実に朝廷に仕えていたのに,天子は何の罪において私に鴆毒を下賜されようとするのか。」と言った。)
妃曰..「何不求見天顏。」
(妃は「なぜ天子に謁見をお求めにならないのですか。」と言った。)
長恭曰..「天顏何由可見。」
(長恭は「どうして謁見が叶おうか。」と答えた。)
遂飮藥薨。贈太尉。
(そして遂に毒を飲み亡くなった。彼は太尉の官を贈られた。)
長恭貌柔心壯,音容兼美。
(長恭は柔和な顔で,心は勇ましく,声も容貌も美しかった。)
爲將躬勤細事,毎得甘美,雖一瓜數果,必與將士共之。
(将軍の身でありながら細かな仕事にも勤しみ,美味なものを賜るたび,たとえ瓜の実ひとつであっても,必ず将士たちに分け与えた。)
初在瀛州,行參軍陽士深表列其贓,免官。
(初めて瀛州にいた頃,行參軍陽士深が長恭の横領行為を表に並べたてて,免官になった。)
及討定陽,士深在軍[五],恐禍及。
(定陽を討つ際,士深はこの軍におり,その身に災いが降りかかることを恐れた。)
長恭聞之曰..「吾本無此意。」
(長恭はこれを聞いて「私はそんなつもりはない。」と言った。)
乃求小失,杖士深二十以安之。
(そこで小さな失態を見つけ,士深を杖で二十回打ったことで彼を安心させた。)
嘗入朝而僕從盡散,唯有一人,長恭獨還,無所譴罰。
(かつて朝廷に拝謁し従僕と別れた際,ただ一人で長恭は帰ってきたが,誰も責めて罰することはなかった。)
武成賞其功,命賈護爲買妾二十人,唯受其一。
(武成帝がその軍功の褒賞として,賈護に二十人の妾を買ってこさせたが,そのうちのひとりだけを受け取った。)
有千金責券,臨死日,盡燔之。
(多くの債券を有していたが,死に臨む日,これを焼き尽くした。)
注釈
芒山之敗[四]…册府巻二一八 二六一八頁「敗」作「戰」,通志巻八五北斎宗室傅作「役」。按河淸三年 五六四 芒山之戰,北斎獲勝,詳見本書巻一六段韶傅、巻一七斛律光傅,此段下文也説「大捷」,這裏「敗」字必誤。
(『册府』巻二一八の二六一八頁では「敗」は「戰」となっている。また『通志』巻八五の北斎宗室傅では「役」となっている。河淸三年(564年)の芒山之戰では北斉が勝利していることや,本書(北斉書)巻一六の段韶傅,および巻一七斛律光傅の記述,また芒山之敗の下段に「大捷(大勝)」と書かれていることから,「敗」は誤字と考えられる。)
及定陽士深在軍[五]…諸本「定」下有「州」字,北史無。按定州屬北斎,這時並未發生什么變化,高長恭是北斎王子,怎會去攻討。上文巳云長恭和段韶攻定陽,這裏正此事。後人以「陽士深」連讀,妄增「州」字,今據北史刪。
(「定」の下に「州」の字がある書籍もあるが,『北史』には「定州」とは記述されていない。定州は北斉に属すると思われるが,このとき北斉の皇子高長恭がどのように定州に攻め入り,どんな変化があったのかは明らかになっていない。この上の文章に長恭は段韶と共に定陽を攻めたとあることから,おそらくこの時のことを指していると考えられる。後に,「陽士深」とつなげて読むと先述の「州」の字と矛盾が生じるとされたため,現在は『北史』の定陽が正しいとされる。)